せいか

バーディのせいかのネタバレレビュー・内容・結末

バーディ(1984年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

02/22、Amazonビデオにて動画レンタルして視聴。字幕版。まとまって観る時間が取れなかったため、数日に分けて視聴した。

正直言うとかなりずっと宙を舞う鳥の綿毛並にフワフワしていて妙に軸のない話をひたすらやっているところがあり、それで何を言いたいのか分かるよーな分からないよーな中途半端さをずーっと2時間たっぷりやった末に終わる作品で、そのくせ何となく名作の皮を被ろうとするような空気感も醸し出しつつお送りされるので、鑑賞中は仄かなムカつきさえ感じていた。キャラクター造詣にイマイチ説得力や魅力も持たせないまま展開するからそうなるというのもある。付いてけないという感覚が近いのかもしれない。
あと、若い頃のニコラス・ケイジがメインキャラクターの一人として登場していてほぼ出ずっぱりなのだけれど、彼の悪いところが滲み出ているというか、暫く観ているうちに食傷のような気分になりつつ、それでも映画は続くので胸焼けを我慢しながら観るみたいなことになっていた。多分なのだけれど、彼がもっと違っていたらこの映画のふわついた印象もだいぶ違った可能性すらある。

作品内容は、ベトナム戦争が一応の中心にある話で、ハイスクール時代に交友関係があった青年二人がこの戦争によってそれぞれに傷を負い、片方(アル)は肉体的に傷付き、もう片方(バーディ)は精神的に傷付いた状態でお互いアメリカに戻り、精神的に病んだ青年のほうが精神病院に収容されていたために、その彼に会いに行く形での再会となる。
かつての二人はたまたま交流を始めるようになったのだけれども、そのときから既に鳥に対して並々ならぬ興味を示していた半ば既に狂人的なバーディのほとんど突飛な行動にアルが付き合うという形の交友関係で、精神病院での再会後はこのときの思い出をアルがバーディに話し掛けたりして振り返っていく。このため、本編は、過去と今が並走して語られる構成となっている。

バーディは鳥の生態そのものに興味があるというより、特にその飛ぶという行為に興味があるらしく、建物からの落下事件のときも危機感なくへらへらと笑い、飛んで落ちることを語ったりしている。鳥への興味、飛ぶことへの憧憬とその意味はわからないわけでもないが、それにしたってバーディの行動はだいぷクレイジーで後先考えなさ過ぎなので、なかなか観ていて怖いものがあった。というか、アルと出会った時点からバーディは既に社会に対してもはやそれに足並みを合わせられない軋轢を抱いていて(これに関しては特に作中でアルに、女の子とうまく付き合うときには適当に向こうの調子にこっちが合わせるんだと言われていたのが象徴的な描写になっている)、だからこそ夢に微睡むように自由に羽ばたく鳥に固執していたのだと思う。本作を通して描かれている彼の青春の様子はとにかくそこを強調するものである。

青春時代の彼らを描くときにはフィラデルフィアの貧しい労働者たちが暮らす街を舞台としており、アメリカ社会における一つの辺境ないしはどん突きのような、とにかくずっと不潔で生ゴミや泥の臭いが画面からもしてきそうな場所を設定しているのも、本作でとにかく出てくる鳥や檻や社会的にこう生きるべきみたいな空気感やら何やらを分かりやすく表現するための道具として扱われている。そういうどん突きの中でバーディは行き場をなくして静かに苦しみ続けているし、表向きはこういう町のハイスクールでいかにも充実してはいても、同時にありきたりに嫌な感じを伴う貧しさと抑圧を孕んだ家庭で暮らす少年であるアルも同じように囚われ苦しんでいもする。アルは鳥に固執するバーディにうんざりはしているけれども、表面を剥いだところで繋がるからこそ二人は共に行動するようになったのだと思うし、互いに互いから離れがたく食い付きあうような関係になってしまっているのだとも思う。ただ、こういう面に関しても作品の根幹に触るものだろうに、本作ではその扱いたるや微妙で、やはり、で?と思わされてしまうような風呂敷具合だったのだけれども。

鳥の自由さに惹かれながら、その自由な鳥をあえて捕まえて外に拵えた檻の中で飼ったり、次には売り物を飼って今度は事実の中に設けた檻の中で飼ったりと、バーディの行動は最初から矛盾と言ってもいおようなことをしているし、何ならばその世界を小さなものに押し込めていき、その閉じたところで鳥が自分によって養われた上で営んでいることにうっとりしたりもする歪みを見せてもいる。確かに彼は実際に自分も飛んでみようとして作中いろいろやったりはしているけれど、結局、そうやって閉じた世界で隔離されて飼い慣らされて夢を見て過ごすことでしかもはや足掻けない人として描かれていたのだと思うし、そういうふうに明文化すると、現代においても(物語として極端なものになっているとはいえ、)かなり実感の伴う人物描写でもあったと思う。自由に憧れていても本当にそうなれない苦しみ、無力感。故に世界を極限まで閉じていくことでその自分を自力で救おうとする虚しい営為。自分で言ってて耳が痛くなるやつ。
バーディの精神病院生活は言うなればそうしたものを突き詰めた結果であり、そうして狂人となっている彼を正気に戻さねば自分自身も一生この檻の中で生きる羽目になるという強迫観念にさえ近いものを抱いているアルだって、ハイスクール時代にも既に根っこでそうだったように、ここでもやはりバーディと同じく、仲良く世界を閉じ(そうになって)過ごしている人であり、社会にもはや背を向けたくても、それでも諦めきれずにまだ足掻こうとしている人としてこの檻に現れるというわけなのだろう。出たい出たいとは言っていても、バーディがいなくても彼は結局行き着いた自分の人生の行き詰まりにあって、それでもそれに正面から納得はしきれずに檻をただ意識するしかなくなる。その彼自身のためのある種のセラピーとしてむしろバーディと向き合うということが発生しているのである。バーディがこの檻から離れる意識を持ってくれないと自分も破滅するというような意識の在り方とか、ラストの、共に病院を無理やり抜け出ようとするくだりとかの依存的な関係性は(繰り返すように中途半端な味付けにしかなっていなかったが)そのためにあるのだろう。バーディを救いたいとかそんなんではなく、彼が現状から抜け出てくれないと俺が救われないというのが近いんではないかと思う。たぶん。
現実的なことを言えば、物語ラスト後の二人がハッピーになりそうな気配は感じないし、むしろ何かしらの軋轢からはやはり逃げられないままだと思うのだけれど、それでもなおそれを乗り越えて生きる気概があるのかも本作を観るだけだといかんとも言い難いし。最後に、バーディが屋上から飛び降りたかに見せてただ段差を飛び降りてただけみたいな、なんとなく冗談でまとめたようなところとかも、なんだかむしろ救いのなさをこちらとしては感じた。籠から飛び出してもそのまま自殺なり事故なりで死んでしまうこともなく、鳥のように両腕を広げてちょっとした段差を飛び降りただけ(=死ぬ意志はない=生きるつもりで行動している)ということで、未来のある落とし所なのかもしれないけれど。
William Whartonの同名タイトルの小説が基になってるとのことだけど、そっちは本映画では曖昧だったところももっと軸足があるのかなとはちょっと思った。

本作はベトナム戦争を扱ってもいて、それによってバーディもアルも心身に傷を負って囚われの身となっているというもので、そもそもの二人の故郷がアメリカ社会のどん突きのようなところであったりとか、とにかく、アメリカというものの社会病理を物語化したらこうなったという一つの作例なのが本作なのだと思う。自由に憧れているのにこんなにも鬱屈してるよね、救いがないよねみたいな。あれだけ鳥が飛ぶ描写とか田舎の高い建物がない町を出してて抑え込むような息苦しさをずっと画面の中に描くのを徹底していたりもしたし。狭い世界で飼っていた愛鳥がふとして拍子に外へと飛び出して、しばらく自由に飛んでから窓ガラスにぶつかることであえなく死ぬという描写がアルの出征と同時進行で発生するのも言わんとしていることは露骨である。基本的にこの作品は眼差しが暗くて、二人のぎこちない青春をとか交友をとかそんな爽やかなニオイがしてきそうなものはそっちのけで、そこが本題の話ではないと思った。

というわけで、描こうとしていることは分かるような気はするけれど、しゃらくせー名作空気感ばかりに特化していて調理が微妙になっていた作品という感じだった。テーマは多分私好みだろうからそこが残念だった。やりようによっては好きになれたと思う。
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