そーた

パルプ・フィクションのそーたのレビュー・感想・評価

パルプ・フィクション(1994年製作の映画)
5.0
映画の正しい見方

僕は英語が喋れるわけでもないし、聞き取れるわけでもなく、高校レベルの知識があるだけの語学力です。

そんな僕が中学の頃この映画を観て映画の価値観が変わるほどの衝撃を受けました。

群像やオムニバスといった形式に時間軸がズレている映画の構成が、今まで観てきたどの映画とも違っていました。

確か、ブルース・ウィリス目当てで観たんだと思います。

タランティーノを知らなければ、
ディック・デイルの軽快なギターサウンドも知らないし、
俳優達が交わすセリフの格好よさなんて知るよしもありません。

そんな青い時代の僕が、マクレーン警部補目あてでこの映画を観てしまったわけです。

当ては完全に外れてしまったけれど、
凄い映画を観てしまった事だけは確かに分かりました。

そんで、サントラを聞きまくって、
エゼキエル書を暗記して、
そりゃ、感化されまくりましたよ。

でも冒頭で僕の語学力について触れましたけど、英語をそのまま理解するわけでもなく、字幕を通してその世界観を知ったわけですね。

だから、完全にそれを理解できていないはずなんです。

そんな事言ったら、他の洋画もそうなっちゃうんですけど。

でも、それでも、面白いと感じちゃうんだからこの映画の持つパワーは侮れないんです。

正直、この年になっても何がおもしろいのか理解できません。

でも、面白い。
やはり、面白い。

これってもはや言葉の壁を越えちゃってますよ。

セリフを散々こねくり回すタランティーノの映画で、言語がもはや意味をなしてないんです。

凄い矛盾。

だからね、私たち観客もその面白さを言語化しちゃ駄目なんじゃないかって。
そんな風に思うんです。

そう、タランティーノが作り出したものって"映画そのもの"なんだと思うんですよ。

ストーリーとか、セリフの意味とか、演出とか構成とかじゃなくて、
映画っていうのはこういうもんなんだ、そんな感じのものを作ったんじゃないかって、そう思うんです。

だから、映画って本来はただ観るものなんじゃないかなって感じました。

理屈じゃないの。

でも、考えてしまうのが人間なんですよね。

あ~、もどかしいもんですね。
そーた

そーた