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飾窓の女のT0Tのレビュー・感想・評価

飾窓の女(1944年製作の映画)
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2023.3.19 12-49

ラングのサスペンス。『サスペンス映画史』ではルビッチと比較されており、ラングはハリウッドの「ご都合主義」の徹底によってハリウッドの秩序の強制力そのもの(ハッピーエンド、あるいは勧善懲悪の予定調和な物語)を対象化し、それによって反全体主義の戦略をとるとされている。

本作はどうか。偶然的な事故ではあるとはいえ殺人を行なっており、死体遺棄に関しては完全に故意の犯罪である。われわれは教授と女のその犯罪を知った上で、次々とその殺害の真相が暴かれてしまう映画の展開を見る。そしてラスト、万策尽きた教授は薬で自殺を試みる。しかし、彼は「夢オチ」という形式でもって許されてしまう。これらの犯罪は全て夢であるという、仕方でもって犯罪のストーリー無かったことになる。これは、「罪-罰」という秩序から、犯罪をやっていない世界における秩序への移行だといえる。つまり結局は、「犯罪を現実には犯していないのだから捕まりませんでした」というハッピーエンドである。

しかし、この映画にはこの秩序からの逸脱が確かに描かれる。それは夢の最後で前科持ちの用心棒が偶然的に警察に撃たれ死ぬことである。これは明らかに「罪-罰」秩序からの逸脱であり、この偶然は予想不可能な悲劇へと導くのである。これは明確なハリウッド的全体主義への抵抗であるように思う。本作では「夢オチ」という形式をとるのだが、とはいえこのなかには、それへの抵抗が見られる。夢のなかでは罪は別の者へ、そして教授は罪を負うことなく罰を受け死ぬのである。本作では夢からの脱出でもって、抵抗は見せるも偶然を許さない秩序立てられた全体主義的な物語形式をとり、ハッピーエンドを迎えるのである。

いや、もっと考えればその用心棒こそが観客にとって「裁かれるべき存在」であり、電話が鳴るシーンでは教授が目覚めるように祈るのである。夢のなかでは死んでいる。だが、それが夢である限り教授は目覚め、用心棒はホテルベルボーイであり、共犯の女は絵画の中の女であり、教授は許され、さらに彼・彼女自体は存在しない。しかしわれわれは「夢オチ」では救われたとは思えない。富んだ肩透かしを喰らった気分になる。なぜならそれは映画が展開してきたのは「夢における悲劇」であり、観客はその物語の展開に手に汗握ったのであり、そちらの方が「リアル」なのである。われわれは「夢オチ」という仕方でハリウッドの全体主義に批判の目を向ける。われわれは、「リアルな悲劇」に目を背けて、ハリウッド的ハッピーエンドに夢を観る。このことが、「夢オチ」という夢とリアルを反転させるような肩透かしによって明らかになるのだ。

サスペンスおもしろい。フリッツ・ラング含め他も観ようと思う。
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