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女子大学生 私は勝負するのニューランドのレビュー・感想・評価

女子大学生 私は勝負する(1959年製作の映画)
2.9
原知佐子こそ、自分の「ポジション」を賢く知り抜き通し、その中で最良の独自の耀きを表すを忘れなかったひとだったかも知れない。それは、脇にまわろうが、歳をとろうが、あまり変わりない。初期のこの作品においても、時代は、太陽族→松竹ヌーヴェルヴァーグ→所得倍増計画の風俗·世相の頃か、火炎瓶闘争·安保闘争の重さや暗さは感じられない空気の側に描写は置かれ続けて、若い女性に対する暴力によるなびかせや·その前に男の遊び欲に抵抗なく同化している女たちが描かれてるが、原の扮する女子大生→社会への入口に立つ女は、男の暴力を恐れず、対峙し自己主張し(相手を怯ますか認めさせ)·ときに白旗的失神の受け方をして·その場の男の力を一旦引き受けもす、すぐに対等に足場見据えて立ち上がり、互いの充実感に利用し合う。悔いなく何に対しても挑みそこを生き抜いてく、「生きて愛して仕事をする自分を信じるだけ」で、相手に補償や責任も要求せず、「瞬間·今を大事に」のブルジョア青年との家庭への途も躊躇わず、「倍働いて倍遊ぶ」「ポジションを(越えての仕事や生き方は的外れ)こそを」の設計事務所の先輩上司には、「自分の魅力に惹き付けられない男はいない」という、若い無条件の自信を否定され·畏れいなしが無力とされても、敬意と才気の鋭い対応力で、ひるみは感じない。そして彼も含め、男たちの尻に付いてく、途を決められることは避けてく自然体がある。基本独立的も、周囲の人気·注目·合流が弱まることはない。生きるスタンス、社会的認知に関するプライドに留まり、その為に破滅の危険性を有する男たちに、影響はされても、なびくことはない別の生·性のプライドがある。
原は、髪型·衣装·身のこなし·表情·対応才気、今観ても魅力的で、視聴率伸び悩みの今の朝のTV小説の才能ある女優さんに、せめてこんな役を与えて欲しいと思う。露口·春川·米倉·蜷川·道代他、この後伸びてく俳優らが、スコープ画面を多数で主体的に自由に埋め·揺らし歪め、寄り·アップも不思議な自己主張がうごめいてる、タッチ。溜まり場の富裕階級子息のうち、モーターボートと海辺岩場、車の競争や青姦の林、新生活的2人の部屋、気鋭建築家の自宅マンション、どこかの映画で観てきたような、場が並ぶが、妙な事に、日活·松竹らと比べ·ナルシスティックに時代と寝ていない·人間個性の側からの使い回し感がある。
それにしても、真面目建築科学生→タイマン張りから·酒や遊び突き抜け→青姦受け流し→疑似家庭→堕胎と男見切り→社会とライフスタイル最前線踏み出し→ボート挑み捌き·死なす→留学より日本で。目まぐるしく、中身に共感とはゆかぬ。刑事上責任なくても、死の一端を担ぎ·心の痛みもなく、「海外より日本で自分を見つけてく」風に云われても、姿には見入っても、作品全体には、素直に感じるものはない。
原に戻ると、こんなことを云うと男性主体の見方と非難されるかもわからないが、彼女はなにしろ実相寺の奥さんなのだ。
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