この作家は、花ら自然や建造物連ねの無機有機中間的や本編劇外(モノクロ)純粋イメージを撮るとき、瞬間気付かず震えが染み渡ってる、天才を無防備に感じる。一般的日常ストーリーも、基本抑制した柔らかな色彩で、退きの図やその横移動で静謐に対象間の強い絡まり少なく進めてく風。が、望遠の寄り捉えやそれも含む自然なパン等で動き絡みますを描く時は、やや忙しない通俗を覗かせる。が、それも相互に飽和されて一体的な一面と溶け合ってく。また音響、聴覚性はそれほど際立たないと見えて実は、見事。
ラスト辺は、純度高い抽象造型と、そこにと留まらない自己との関係性が、併さってきて内から高揚す。パウエル・フェリーニ・スコセッシが溶け合い、彼らも持つ芸術にふんぞり返らない、内からの催促と対応始末が付く。
基本、内容や会話は、日本のTV標準ドラマよりもありきたり半学園内劇創作ものパターン、白々しい人生や表現観の台詞。愛するひとの死の癒えぬ傷、映画学校休みがちから、従来の故郷の話から表面虚構のラブストーリーに変えた卒業製作再開、学校の援助切られるも・それは恋人との日々再現構築、学友らの協力も理解や進路を彼らに示せず、精神分析医にもその重さより身近に寄り添える人を求めてる内を語る、迷いと混乱の侭、また本来のかの信頼のベースの確認、らが纏まらず続く。アーティストとして不遜・ごう慢なのか、微笑ましくちゃちなのか、浮き舞い、分からない。しかし、嫌みはなく、近しく愛せる宇宙。
劇中創作映画は失敗作へと思いきや、家族や友人らばかりか、見捨てた先生からも前言を翻す、華やかで実のあるプレミアに行き着く。単純に他人の作にも惹かれ、自分を通しながらも他人の意見にも耳を傾けた、映画制作そのものの空気に漂ったヒロインが変に清々しい。卒制とは上の一般映画クラスだが、独善的にも見える、自分の映画に拘った友人は、スコセッシを語り、ウェルズに憧れ無心に向かうが、編集権を奪われる。ヒロインの関心の映画は、前作の記憶だと、ベネックスら、より通俗。
不思議にストーリーや主人公の内的葛藤より、ここに張りつめ・漂い・浮き上がるものも感じる、映画の始原の、厳かさ・ひんやりした冷静さが貴重だ。ストーリーを超えて、人生や世界観に、想いを広く伸ばす事ができる。単独の自然捉えや表現イメージからすると、中心部分は今の映画平均からすると、中身もスタイルも何故か辿々しい。例えば、『オール・ザット・ジャズ』等のフォッシー、『ラ・ラ・ランド』等のチャゼルを輝かしい映画ならではの活力表現の勝利と呼ぶならば(個人的にはこれらの映画的映画には否定的だが)、ここでの進行はどうにも速度を欠き、説得力や納得も与えない。だが、小説やMTVとは違うふとした且ついつしか溶け込んでるものは、実人生とも違い、流れてく力を自律的に持つ。
恋人が亡くなったショックを家族や学友、精神分析医らは素直に理解し、映画制作再開にしても、裕福な親の援助、学友らの現実の不満や反発はあってもヒロインの根っこの能力と人間性への変わらぬ評価、内容が変わったことに難色も親身は変わらぬ先生ら、とかなり恵まれた環境のヒロイン。どこまでが自伝かわからないが、大事な人を失ってもそれを打ち明け理解してもらうには進まぬケースや、先生らも、実自作に気持ちゆき、未だ世間的に評価低い映画表現の世界では、成り上がりの自己本位、自分の感性に沿う安全な者だけを引き上げる対象とする、品位の低い人間が多いのが実情だと思う。しかし、それをリアルに描くと作はひん曲がる。卑しいものとなる。
かといって善人らに囲まれた中で、創作は一段一段積み上げって行くわけではない。気持ちの高揚はどこかに持ち続けても、何も手懸かりらしいものはない。具体的には迷いから脱しない。
そうして完成した実作の披露映写会での成功。何故かそれに嘘はない。しかし、その後本来この作家の持ってる、巧みで鮮やかな幻想的抽象的表現力と、またそれでは済まない現在の作風の辿々しさの合体したパートが、主人公の内面世界として広がる。先に述べたように、母国の最大映画作家パウエルや、異国のフェリーニ・スコセッシの様式世界でのゴタゴタ納得の手応えと似た感触。愛しいと共に、病い発覚前、いや二人で闘ったその後も、自分を威圧しリードしてく存在であり続けた、亡き恋人のイメージへの、発砲・射殺。あくまで自分の引きづる弱さとその連続性、への姿勢だが、目立たず見事にも見える。フェリーニやスコセッシのように、具体的には何も解決していないようにも見える。しかし、そうやって、鼻につく作家気取り、その本作の唯一の悪に見える要素、それは必要悪で、聖人とは違う足取りを現代人は、取っていってく事が、それ自体でない、本当の喜びと奉仕に繋がって行くのかもしれない実感。観念では理解できない、不思議で確かな手応え。現実や過去重視の自伝映画に留まらない、しかし、一般的には高い評価・共感が集められる作とも思えない(欧米の高い評価は気紛れのように感じる)。心ならず失った者との今を生きる者との関係は、今の現実の複雑さで歪みまた別の生を形づくってゆく。
40年近い、作家と(母役)女優とのタッグ。実際の本作劇中作にあたる処女作は、まず何より映画として見事、鮮やか(真の天才をフィルターなく確信できる)。その強い方向を極める手も、以降はあったが。当時は、というか、その少し後から数年前迄、ジャーマン映画のヒロインや、『オルランド』の圧倒存在から始まる、女優の方と、彼女の作品作家選択眼しか知らなかった。こんな、(少くとも表面は)ありきたりの映画にも、(私的親交もあるのだろうか)出てたなんて。