『荒野へ』。
大学卒業直後、モノ中心社会からの脱出を図るため、家族にも告げず旅に出た青年。彼は着の身着のままで北へ、アラスカを目指し続ける。彼を突き動かすもの、そしてその終着点とは。
ノンフィクション小説の映画化で、監督は名優ショーン・ペン。
放浪の旅の中で目にするアメリカ大陸の広大な風景美や、各地に転々と存在する「浮世離れ」したコミュニティで生きる人々…といったエッセンスは、後年の『ノマドランド』を想起させもするところ。しかし、仮に比べるとすれば、今作はよりオトコらしいロマンチシズムに根ざしているといえる。
主人公のクリス(E・ハーシュ)が旅に出た背景には、家庭環境(長年に渡る両親の不和)の影響が大きいことがわかるものの、経済的には裕福な家で、高等教育も受けている。ソローやバイロンの孤独論を引用し、部屋にはガンマン姿のクリント・イーストウッドのポスターを貼った彼は、やはり選択した旅人であり、放浪者(ノマド)とは根本的に異なるのだ。風景描写をとっても、今作が《雄大》なら『ノマドランド』は《茫漠》である。
故にだろうか、これは今のわたしの年代のためなのか、あるいは現代という時勢のためなのか、主人公よりも残された者のほうへ目が向く。両親はある意味で自業自得のようなところがあるとしても、ひとり残された妹(J・マローン)や、クリスが出会い交流する様々な人々(※1)。
ただ、今作は視点が青臭く偏っているというわけではない。むしろ、上記のようなクリスの《途上》で見送る人々たちが抱える痛み、哀しみを忘れることなく少しずつ触れて、どれだけ逃避したとしても人は真に孤独に生きることなどできるのだろうか?という問いを浮き彫りにしている。
クリスはいわゆる資本主義らしい生活を否定するけれど、両親への反発と敬愛する作家たちへの憧れをミックスしてコンプレックスに成形した…要するに「拗らせた」ようにも思える。クリスは身分を一度捨て、自分に新たな名前を付ける。つまりは生まれ直しの旅だ。
彼は独力でのアラスカ到達と、狩猟採集民のような生活を理想としながらも、やはり旅の途中ではバーガーキングでバイトせざるを得なかったりもするし、最終的に行き着いたねぐらは打ち捨てられた《バス》、つまりこれもまた近代文明と無縁ではないモノだ。そして当然、自然の振る舞いは容赦なく厳しい。
それでも、今作は彼の長い自分探しをただ虚しい徒労とは描かない。自分が大きなものの一部である悟りの感覚、それは何も遠く離れた大自然の中だけではなく、一見煩わしい身の回りすぐ近くにもあり得ることに気付かせてくれる。
それには過程が、終わらない荒野での《途上》が必要だったけれど、クリスがわたしたちの代わりに見せてくれた、のかもしれない。そう考えると、終盤の痩せ細った彼の姿は、どこかキリストにも見えては来ないだろうか。
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音楽を担当するのは、「歌えばそこはグランドキャニオン声」(わたしの中で)ことエディ・ヴェダー。
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※1:この中に、ギター弾き語りガール役でクリステン・スチュワートが登場、大いに助かる。当時17歳、ヘタウマハスキーな歌声とホットパンツから伸びる脚の閃光が胸に刺さり過ぎる。ジェナ・マローンの起用といい、ショーン・ペン兄貴とは一杯やれそうな気がしてきたぞ。