室内での裁判劇で女4人にそれぞれ役回りを与えながらも越境を繰り返しその裁判が辿り着くべき結論に最短距離で向かいつつ4人が役回りと映画内の配役までも逸脱するかのような歓笑で一辺倒さを回避するという、いかにもリヴェットらしい押し引きがこの映画が持っている可能性の一つだろう。逃亡犯とその恋人という最もカメラを向けるべき2人をテレビ画面のみで処理し、あくまで学生たちと逃亡犯の元相棒との「鍵」をめぐる傍のストーリーを中心に展開してみせる。声量や身の振り方や人物配置が極めて演劇的に組み立てられていくシーンがあれば、異物を入れたウイスキーを飲むか飲まないかの思惑の交錯を中心に人物を動かす映画的に組み立てられるシーンがあり。ダンベルによる決定的な事件が起こっても尚、空間や人間関係が揺るがされることなく日常のリハーサルが続行される。肩の力を抜きながら実験を試み映画的物語と両立させ(これは人によって退屈と取るだろうけど)紛れもない映画そのものを存続させていたように思えて、リヴェットの映画と共に生きてきた業の深さに敬意を表する。