嵯峨

仮面/ペルソナの嵯峨のネタバレレビュー・内容・結末

仮面/ペルソナ(1967年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

「ファイト・クラブ」初めて見とき以来の衝撃があった映画でした。
元々、鷲田清一か誰かの「『じぶん』とは何か」的な本読んでただけに非常に刺さった映画でした。「ファイト・クラブ」は個人的に「『生き方』の定義への反逆」的映画だと思っているのですが、「自己による自己のための『自己』を定義することへの反逆」的映画だと思いました。あんま、ユング心理学わからないんだけど。まあこんな映画見て面白い!!って言ってるのって多分相当病んでる人なんだろうなって思いましたが。まあ僕もその一人です。

カラーだったら物理的に目にダメージ受けそうなドラッギーなオープニング。まあ普通に映像的にすごく好きなんだけど、映画を見ていくうちに無声映画で象徴される「芸術」、男根で象徴される「らしさ」、蜘蛛で象徴される「本能的な恐怖」、釘が刺さった手で象徴される「痛み」と「自己」を形成するもの「自己」それ自体といったやはり全体のテーマと噛み合ったような映像で構成されてて非常に興味深い。自己の外的側面まさに仮面と自己の内的側面まさにペルソナってやつですかね。で、そこから非常に窮屈な印象、おそらく窓といった外的世界に通ずるものがない空間に閉じ込められたような少年が登場する。映画としては、「自己」とそれを定義づける「他者」という存在が強調されていて、しかもその境界線が全く曖昧になってしまうという話で、この世界から隔絶されてる少年の「自己」なるものがまさに「無」であり、自由であることを指し示してると解釈しました。つまり、「他者」によって「自己」を認識し始めるわけで少年にとっては「自己」を認識できない人間の不完全性が表れてる感じがしました。でも個人的にはむしろ認識してしまうからこそ悩んでしまうから「自由」にも見えちゃうなと思いました。・・・って見てる段階だと何のこっちゃなんだけど、一通り物語が終わった後にもう一回登場するんだから親切設計。「ああ、こういうことだったのか」ってなりました。

「自己」と「他者」の関係性というのがこの映画では本当によく描かれてて、「顔」というものがとりわけその象徴に使われてるのも非常に衝撃的な演出と相まって印象的でした。そもそも「顔」って本来自分では見ることができない、認識できないものなので「他者」へ向けたものにどうしてもなってしまうもの、まあ最も仮面的であってこの二つの関係性を否応無く決定づけるものになってる。だからこそ、見た目演出といったものがふんだんに使われてて特に怒りと共にフィルムが焼けるという結構衝撃的な演出があるんすけど、顔から焼けていっていよいよこの境界線が曖昧になっていくというのは映像的な部分と物語的な部分がマッチした演出になってて良かった。
ここまで映像的にこんな抽象的なことが表現できるもんなんだなあと思いました。

本当に話したらというか考え出したらキリがない、すごく衝撃的で面白い映画でした。マジで偏頭痛持ちの光がチカチカとか苦手なのでカラーじゃなくて良かった。終わりもかなりポジティブ・・・に僕は解釈したんだけど、まあ病んだらこれを見ようと思いました。
嵯峨

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