Jeffrey

つながれたヒバリのJeffreyのレビュー・感想・評価

つながれたヒバリ(1969年製作の映画)
3.5
「つながれたヒバリ」

冒頭、チェコ共和国中央ボヘミア州のクラドノ。重工業誕生地、政治犯として囚われの身の7人の男、元コックのパヴェルとその仲間達。スクラップ工場の女性との恋、結婚、監視役の男、覗き、再教育。今、屑鉄と瓦礫の狭間で生きる人々を映す…本作はイルジー・メンツェルが1969年に監督し、後のベルリン国際映画祭で最高賞の金熊賞を約20年間公開禁止された後の1990年に公開が解禁され受賞した傑作で、この度チェコ映画特集をYouTubeでする為BDにて再鑑賞したが面白い。脚本は原作者のボフミール・フラバルとメンツェルの共同で、撮影はヤロミール・ショフルが担当。出演は前作の「厳重に監視された列車」の主人公演じたヴァーツラフ・ネッカーシュやメンツェル映画に欠かせない俳優ルドルフ・フルシンスキーなどである。

本作は軽快で優しく社会主義体制が進んでしまったチェコの男女の淡い恋とときめきと生きる喜びを映し出した名作で、厳しい冬でも人は暖かな春を想うと言うキャッチフレーズが胸に染みる1本だ。この作品は監督の意欲作として知られており、約20年間も公開禁止となっていたのが非常に残念である。だが、20年も経って金熊賞受賞すると言うのはこの作品だけだし、偉業とも言えよ。本作は1950年代のチェコスロバキアの製鉄所に働く人々の生活を映していて、こういう労働環境にいる間でも不条理なことをされても、喜びに満ちている、その日常生活で彼らの笑いがふと観客に伝染して、観客がクスクスと笑ってしまう、そういったメンツェルの特有のユーモアな作品は本当に救われる。


さて、物語はある冬の社会主義が進むチェコ。政治犯として囚われた男達。彼らは再教育としてスクラップ工場で働かされていた。ユダヤ人のコックのパヴェルは、国外脱出を試みて収監された若い女性イトカと出会い、恋をする。2人の交際は順調に進み、やがて職場の同意を得て無事結婚を迎えるが…。本作は冒頭にスクラップ工場が映されるファースト・ショットで始まる。沢山の煙が上がる煙突の画、チェコの小さな歴史が語られ、ガラクタだらけの工場内を頭上から撮影するカメラ、そこには髪を切っている男性の姿、無気力に寝ている男、あくびをする者、パンを食べる者、その瓦礫の山からハットをかぶった1人の男性がそこで働いている女性に見とれている。彼女も仕事をしながら彼を見つめる。 ここは社会主義国家の建設に馴染まない者を再教育する為のスクラップ工場で、7人の個性的な男たちが働かされている。

ブルジョワ揃いでもなく、庶民の側の者らが捕まっているようだ。彼等が集まる一角に監視役の職場代表のふくよかな男が現れ、彼らを1人ずつ紹介する。ユダヤ人の元コックのパヴェルは監視役の男に書類を渡されるが、それをフォークの包み紙として包んでしまう。彼はいつも反抗ばかりしている。そんなある日、パヴェルは工場に隣接する国外脱出を試みようとした女たちを収容する施設の若い女性イトカに恋をする。二人の仲は順調に進んでいく。

続いて、カメラは職場代表の承認を得て形式的だが、結婚式が挙げられる。カメラはどんちゃん騒ぎする人々を捉える。一方表面的には長閑な工場にも風が吹き始めた。仲間の哲学教授は党の宣伝教育係に議論を吹きかけ連行されてしまう…。そして遂にパヴェルも党幹部の歓迎会の席で連行された仲間のことを訪ねた事により、拘束される。先に連行された仲間たちと再会したパヴェルはいつかは真実が解ることを確認し合い、イトカの目前で新たな労働へ向けて連れ去られていった…そう、これは一番若いユダヤ人の元コックのパヴェルを軸に物語が展開していく…と簡単に説明するとこんな感じで、労働者の日常を描いた映画である。



この作品は灰色が基調となっているため、映像全体がどんよりとしている。舞台となっているくず鉄の山の反射によるものだろうか、その色彩が静かに映画を包み込むような不思議な光を放つ。そしてメンツェル最大のユーモアといっても良い観客を惹きつける笑いのセンスが満ちている。しかも暗示的に皮肉る要素もきちんと映画に入れており、所々に納得できる共産主義化後のチェコにおいての全てが伝わる面白さがある。警察国家の不条理な圧制やパヴェルとの結婚式など見所満載な見え隠れするメッセージ性と大々的に映像で見せる光景が混じり合って面白いユーモアあふれる作品になっている。 20年間もお蔵入りになったって言う内容も分からなくは無い。こんな作品を当時の当局の人や役人たちが見たら反共産主義者のレッテルを貼られても仕方がないと思う…がしかし、才能あふれる若者作家らを封じ込めるのはやめて欲しいなと一映画ファンとして思う。


監視役の男が子供たちに顔をタオルで拭くシーンがあるのだが、一緒に老婆の女性も顔を出して、タオルで拭いてと言う感じになるのだが、その監視役は老婆の顔を拭かずにそのまま去っていってしまう場面などもおかしい。拭くシーンと言えばもう一つ、若い女の子を2人の男性が体を洗い流す場面もエロティックである。これまた気弱な監視員(若者)のせいで、物語が可愛らしくなるのも良い。仲間の目にゴミが入ったからゴミを取ってもいいかと女性が尋ね、監視員の男がいいぞと言って、瓦礫の影に2人は行き、そこで抱き合って愛し合うのだが、その監視員が戻ってこない彼らを探しに行く場面で、多分普通の監視員だったらそこで憤慨するが、彼の場合は頭を横にして戻ってこいと言うだけである。どっちがイニシアチブを握っているのかよくわからない構図がたまらない。その後にその若い監視員は瓦礫の車のナンバープレートらしきものを外してて、胸ポケットに無理矢理隠すのも笑えた。

それにしたって、労働者を撮影しながらプロパガンダ映画を作成しようとするその過程が映されるのは非常に興味深く、こうやってプロパガンダ映画が世に放たれるたのだろうと思うと怖さの反面滑稽でもある。この映画を見て色々と思うことがあるのだが、どんな社会主義の国であろうと民が一度、心の拠り所(依拠)した物を奪ったり変えたりは出来ないのだなと思った。それは信仰心である。それが人間らしさを持続させるための救いであり、最大の武器でもある。こうやって第二次世界大戦が終わった後の共産国家になったチェコスロバキア(ビロード革命の前)と言う国の人々は生きてきたんだなと映画からじわじわと伝わる。
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