この作品では〈イエス・キリスト〉は常人として現れる。
けれども、〈イエス〉は本当に常人であるのであろうか。
〈イエス〉は常人としての苦悩を背負い彷徨する。
〈イエス〉は常人として生きる中で悟るのである。自らの内面を探究することにおいて。
そうして、〈イエス〉は「死」を選ぶ。
何故なら、すべてを悟りきり、肉体としての「生」を必要としなくなったからである。
しかし、「誘惑」が訪れる。「生」への「執着」を湧かせて。
そこで、〈イエス〉は湧いてくる「生」を常人として全うする――。
けれども、〈イエス〉は看破する。「悪魔」が「誘惑」をかざした、と。
〈イエス〉はこれを「最後」と、「誘惑」の存在を抹消する。
よって、〈イエス〉は「死」を選び、「生」を抱き、「復活」する。超人として。
以上が、この作品の概要である。
これを解釈する為に〈イエス〉の在り方を、私なりに考察する。
超人は余りにも鋭瞬で敏捷な感覚を特化する。その感覚は「心」に直結して宿る。
それが極限に達すると自らの「魂」に触れる。その瞬間、超人は「霊」と繋がる。
そこで、超人は常人には視えないものを視る。常人には聴こえないものを聴く。常人には湧かないものが湧く。これを「インスピレーション」つまり「霊感」と呼ぶ人もいる。
すべての根源に在るのが「霊魂」と呼ばれる。
要するに、超人の成り立ちは上述の如くであり、〈その方〉は常人を超越する。よって、超人が生まれる。
そこで大半の超人は常人の反感を買うことになり、殺される。
その最も有名な方は〈イエス・キリスト〉である。
常人が抱く怒りや憎しみを始めとするあらゆる否定的な感情によって〈イエス〉は生命を奪われた。
けれども、〈イエス〉は「復活」する。それは常人の「心」の中に。
〈イエス〉はその「心」を浄めるために「復活」した。「心」を浄めきり、救うために。その救われた「心」は「霊魂」の存在を一人また一人に感覚でもって理解させていく。
〈イエス・キリスト〉は自らに似せるかの如くに伝導していくのである。
すると、世界からあらゆる「悪」が一掃されていくであろう。
そうして、『「神」が「人」をつくる』のである。
果たして〈イエス・キリスト〉は如何なる存在であるのか。
この作品は、その一考察を示してくれる。
常人である〈イエス・キリスト〉の姿を通して、同じく常人で溢れる世界で様々な体験を重ねて、どのように〈イエス・キリスト〉は超人になるのか。
その瞬間までを、この作品は見せつける。痛みとともに。
それを、まざまざと見つめる私は打ちのめされる。
「貴方は、それを、知っていますか」