邦題とジャケが最悪。これは合衆国憲法で保障された言論の自由についての作品であって、アホでもマヌケでもない。また、でかでかとプリントされたマイケルムーアはほとんど出てこない。というのも、これは大統領選挙の直前に、ユタの大学にリベラル派のマイケル・ムーアが来校し講演を行うことについて、ユタの人々が喧々諤々する様子を捉えた作品であるためだ。(保守派とリベラル派の人をゲストスピーカーとしてそれぞれ講演させることによる、生徒の政治への意識向上が目的)
ユタ州とは何か。それは宗教的自由を求めてモルモン教徒が移り住んだ町である。彼らは保守的な考えを持ち、中絶の禁止や、婚前交渉の禁止を掲げている。また彼らは、青年期に世界中に出向きモルモンの教えを伝導する。思い返すと私の地元をチャリで走っていた、ネクタイ姿のお兄さんたちがそうですね。目が合うと遠くからでも挨拶してきたことを覚えている。
ユタの住民は圧倒的に共和党支持者が多く、住民や生徒がマイケル・ムーアをユタに呼ぶなと怒る一方で、「大学は様々な立場の人の意見を聞いて学ぶ場所だ、だからそれを封じるのは間違っている」という声が教師や生徒から上がる。彼らは対立する。自分と意見が違う人でも意見を聞くことの自由が激しく議論される。
「家族の街ユタ」の保守派が「価値観を破壊する」ムーアの来校に対し、金でもみ消そうとしたり、裁判を起こしたり、嘘をついて反対署名を集めたり、リベラル派を脅したりする様子が描かれていて、保守にとって精神的よりどころとしての伝統的家族観の維持がいかに重要視されているか分かった。
映画を振り返ると、リベラルは保守の発言に耳を貸さず、保守はリベラルの発言は倫理を欠くと信じていた様子が見られる。例えば発言しようとする人に対して激しいブーイングを行ったり、有無を言わさず会場から追い出すなど。お互いがお互いの話を聞かない様子は両陣営に共通していたと言える。
かつての日本の状況について、以前鑑賞した『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』という映画を思い出した。右派思想の三島と左派思想の東大学生による言葉の応酬が行われるものの、三島は言霊の持つ力を信じ、学生たちへの敬意を忘れないでいた。その態度のゆえか、立場の違う東大学生は彼を先生と呼び間違え、狼狽した。議論が進むと、両者はお互いの思想の共通点を見つけ出してもいた。
現代の日本のインターネット上において、三島のような敬意を感じることは多くない。現代はマーシャルマクルーハンが言ったように、インターネットで誰とでもつながれる社会である一方、お互いがお互いをけなす過激さを伴った言論が二分化し、人々が部族的になっている。オンライン上でのやり取りは顔を出す必要がなく、相手の反応を見たり想像することができないから、言葉の応酬はどんどん過激になっていく。これより、映画のようにお互いがお互いの話を聞かない傾向は強まっていると考えられる。そのような状況で必要なのは三島のような哲学対話的態度、すなわちお互いに話を最後まで聞き(敬意を示し)、そして異なる主張間にある共通項を探すことなのではないだろうか。
また映画の主題である言論の自由について、一応保障されていたが、講演会までの道のりで保守派がマイケル・ムーア来校計画をつぶすべく躍起になり、その後にも学生がマイケル・ムーアを呼んだことの責任問題を問われたりしていて苦い気持ちになった。ユタのマジョリティである保守派はその立場を揺るがすものを排除するべく尽くしていた。