悪人、善人、それとも···
悪人と聞くと、
親鸞が唱えた悪人正機説が頭に浮かんでしまう。
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
なんとなくカッコいいなと思って覚えたこの言葉。
悪人の方こそが救いの対象だという、
思いもよらない逆転の発想。
初めて聞いたときにはなる程なと、
えらく感心したのを覚えています。
でもね、そもそも悪人ってだれよ?
ふと我にかえるとこんな風な疑問が沸き上がってくる。
なるほど、それは十分に核心をついた質問。
そう。
そんな問いこそがこの「悪人」の最大のテーマなんです。
男と女の逃避行。
彼らと彼らを取り巻く人々の中で、
本当の悪人とは一体誰なのか。
俳優達の迫真の演技が、
むしろその問いの答えをはぐらかすようで、
なんともモヤモヤが残る作品でした。
ただね、何はともあれ、
僕はとにかく深津絵理に弱い。
可愛すぎる。
そしてやはり可愛すぎる。
誰しもが舌を巻く程の演技力。
それが彼女の最大の武器なんだろうけれど、
見ているこちらは演技だと思いたくないほどの自然体だからこそ、
劇中の彼女に対し本気で幸せを掴んで欲しいと思ってしまった。
うん、彼女は紛れもなく善人であると願いたい。
だとすれば悪人とは一体誰なんだろう。
「大切な人がいるか?」
柄本明演じる被害者の父がそう問いかけるやいなや、
登場人物達にその言葉が均等に降り注ぐ。
「失うものがない事を強さだと勘違いしている。」
そう続けざまに吐き捨てられた言葉の延長線上に悪人の定義がぶら下がっているような気がしてならない。
そう考えてみると、もはや悪人にすら成りきれない空虚で別種な人間達が現代社会には溢れかえっているような気がしてしまう。
もしも親鸞が現代社会の様子を目の当たりにしたら何と思うだろう。
親鸞が語る悪人には、
なぜだか暖かさを感じてしまうけれど、
現代の悪人はえらく冷たい。
映画を身終えた後のモヤモヤとは、
そんな冷たい悪人達を、
善人とも悪人ともどちらにも分別出来ないでいるもどかしさが発端なんだと思う。
そうだとすればこの映画。
親鸞に対して悪人正機説の限界をさりげなく提示しているようでいて面白い。
贅沢なほど豪華で実力派揃いの俳優達が、
押し付けがましい訳でもなくさらりと核心的な問いを投げ掛けてくる。
この映画の魅力をじわりじわりと味わうことができるのはこういう事なんだろう。
というかね何よりも、
現代に親鸞が現れたら、
やはり深津絵理にはドキドキすると思うな。
だってね、
可愛いもの。