まぬままおま

どこまでもいこうのまぬままおまのレビュー・感想・評価

どこまでもいこう(1999年製作の映画)
5.0
小学5年生を主人公にした映画の最高傑作だと思います。
塩田明彦監督は天才だ。

以下、ネタバレ含みます。

アキラと光一の悪ガキコンビ。ヤンチャなことを描くファーストシーンでのヤクルトを盗む出来事の鮮やかなことよ。ワンカットでヤクルトレディに挨拶をする何気ない様子から、劇的にケースを盗み出す。その後の逃走のカットのカメラワークも凄まじい。「人間が走る」という単純な動作をどれだけ劇的に面白くみせることができるかが、映画の神髄であることを改めて認識しました。そしてもちろん本作は面白い。

本作は学校と放課後の団地での遊びが描かれているのだが、その何気ない日常の中で確かにアキラと光一は悪ガキから変化していく。
小学生男子なんて幼稚だ。団地や公園や校庭を、戦争ごっこだといって駆け回り、暴れることしか能がない。お手製の花火銃をぶっ放したり、爆竹搭載紙飛行機を飛ばすことしかできない。それに比べて小学生女子の「おませ」ぐあいよ。一輪車を列になって漕ぎ、合奏で遊ぶ。小学生男子が劇伴の中で歩くことしかできないのとは対称に、小学生女子は劇伴を演奏するができる。この映画表現も素晴らしく、何より男女の違いを的確に描いているのだ。そしてアキラを珠代が「バーカ」といって見向きもしないのも当然なのである。

ただ悪ガキに過ぎない彼らも変わっていく。団地で遊びながら人生に触れていく。学校では平等に思えた彼らも、それぞれに家庭の事情がある。転校生の野村という「他者」が象徴的だ。野村の家庭はシングルマザー世帯で母は精神的に不安定だ。だが高価なジオラマを多数所持しているから、文化的な素養は高く、元夫は高給取りだったのだろう。アキラは彼と出会うことで変わっていく。アキラは彼とヤンチャな遊びを通して、彼らを隔てる異質さを体感するのである。もちろんアキラは光一との関係もある。野村の誕生会をぶっちする悪気なさもまた小学生の心性なのである。

光一も転校生の木野という「他者」と出会う。二人は最初、ケンカをするのだがなぜか仲良くなる。そして煙草を吸い始める。光一もまた他者性を体感するのだが、彼は悪ガキから非行少年へと変化してしまうのである。小学5年生は分岐点だ。悪ガキ少年から、中学校へ進学し知性を備えた「大人」になっていくか、大人と同じ煙草を吸う非行青年になっていくのか。そしてアキラと光一は袂を分かつのである。

野村は死んでしまう。母と共に一家心中で。アキラは悪ガキ少年だから、「大人」として葬儀に参列することはできない。けれど正しく悲しんで哀悼できない自分自身に悩む。葛藤する。だがその葛藤こそ「大人」になるための通過儀礼なのではないだろうか。他者や死を受け入れようとする姿勢が。そして葛藤できるアキラはきっと「大人」になれる。

アキラが少し大人になったことは珠代も感じている。ラストシーンで珠代はアキラにビスコをあげる。それは大人のデート未然ではあるが、珠代にとってはデートでありーあげる行為が尊いー、アキラは気づいていない。だがここではじめて二人は対等な関係となり、恋愛関係が始まっていくのである。素晴らしいエンディングだ。明るい未来に開かれている。

ただアキラといった小学生が思い描き、なったと思う「大人」は実際の大人と断絶があることは『カナリア』や『害虫』、『月光の囁き』に引き継がれて語られることになるのだが、私は素直にアキラと珠代の恋路を応援したい。アキラよ、ビスコをもらってはしゃぐだけではダメだぞ。