レインウォッチャー

コッポラの胡蝶の夢のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

コッポラの胡蝶の夢(2007年製作の映画)
4.0
ウパニシャッド哲学、カルマ、リインカネーション…このへんのワードをきくとお股を押さえてもじもじしちゃう人向けの映画。

人生に絶望し、自死を決めていた老教授が、突如落雷の直撃を受ける。普通なら即死のところ一命をとりとめたばかりでなく、目覚めた彼の身体は30代のそれに若返っていた。

と、かなりオカルト / スピリチュアル風味強めの方向へと物語は邁進していくのだけれど、思えばF・F・コッポラという映画作家はキャリアを通して「時間と生の意味」みたいなテーマに関心があった人のようだ。

たとえば、『ドラキュラ』では強力な吸血鬼となって永遠の命を生きながらも、かつて実現できなかった愛をやり直そうとする男の姿を描いた。あるいは逆に、『ジャック』は通常よりも速いスピードで成長(老化)していく少年の話だ。
それに、コッポラさんといえばの代名詞である『ゴッドファーザー』シリーズにしても、父と子を連続した一つの生命と考えたとき、二つの世代を超えてカルマ(業)がループ・繰り返される話と捉えることができるだろう。

今作の主人公ドミニク(T・ロス)もまた、彼らと同じように通常の「時間」という有限の枠から一時はみ出した存在であり、深い悔いのある人生を過ごしているという点でも共通している。
ドミニクは「言語と意識の起源を探る」という一生をかけても成し得ない研究を続けていて、そのためにかつて愛する人を諦めた。若返り後の彼は超記憶などの特殊能力が開花し、更には若き日の恋人と瓜二つの女性とも出会うことになる(このへんも『ドラキュラ』っぽい)。

神様の気まぐれのような、おまけのロスタイムをどう生かすのか?
映画は、夢と現実が時に混濁し(意識が拡張しすぎたドミニクの精神の表現。アンバーとブルーの対比や、鏡を使った分裂演出が楽しい)、時に複雑で迷宮的な様相を見せながらも、実はごくシンプルなそんな命題を突き詰めていく。

邦題にもなっている『胡蝶の夢』は、有名な荘子のアレ。まどろみの中で蝶としての一生を過ごした男が、蝶の夢を見ていたのか、それとも今の自分の人生が蝶が見る夢なのか?と問う話だ。
今作では、ドミニクが言語の起源を辿るうちに行き着くインド哲学的な思想と、この説話とを「無常観」のもとに結びつけて強調していると思う。

たとえ人生何回分の時間を手に入れようと、結局のところ人は愛や知や名誉といった同じような「欲」や「執着」に悩みがちだし、後悔は絶えない。しかし、だとしてもペシミズム(厭世)に陥るべきではなく、選択に誇りをもつことでループから解放されるべきなのだ…そんなところだろうか。

今作のラストは誰が見てもハッピー!って感じではないし、見方によっては何の意味もないものに映るかもしれない。それでも、わたしは今作を人生讃歌として信じておきたい。あの「三本目のバラ」の存在が、その象徴であると思えてならないからだ。
それに、言語が時間感覚を超越するためのある種のキーになる展開は、D・ヴィルヌーヴ監督の『メッセージ』(オールタイムベストの一本)との接点を感じたりもする。あれもまた、選択と希望に関する映画だった。

パパコッポラさんの作品史をもっとちゃんと深掘りすればまた違った感想が出てくるかもしれないので、そのときにはまた観なおしてみたい。ご存命のうちに出かけるか、コッポラジャーニー…なにせ、人生は有限なのだ。