カラン

美しき諍い女(いさかいめ)のカランのレビュー・感想・評価

4.0

高名であるが半分筆を折りかけている老画家(ミシェル・ピコリ)のシャトーに、その画家の妻(ジェーン・バーキン)と不貞を働いているように見えるアートディーラーの仲介で、若い画家が招かれる。若い画家は恋人(エマニュエル・ベアール)を連れており、老画家と若い画家は、自分の恋人をモデルにさしだす代わりに、10年前に途絶した『美しき諍い女』の絵を制作するという約束をする。。。


☆三角形は生産的なのか不毛なのか?

原作はバルザックの『知られざる傑作』でそれをジャック・リヴェットが翻案したものらしい。劇中でストラヴィンスキーが何度かかかる。老画家は妻とアートディーラーとの三角関係をそもそも作っていたが、今や老画家と妻とモデルの三角形や、そして老画家とモデルと若い画家との三角形を形成しようとする。他方で、シャトーでの絵画制作が連日行われている間、若い画家のもとに妹が訪ねてくる。この妹は老画家のもとでモデルをしている兄の恋人と一緒に住んでいるのが嫌だったと不満を兄にもらす。したがって、若い画家も恋人と妹とで固有の三角形を形成しているのである。

これらの欲望の三角形は、最終的には火消しにあう。『美しき諍い女』を石壁の中に埋葬することで。こうして非常にスキャンダラスなプロセスを経ながらも、不幸と躓きの石は夫婦の合意のもとに消滅したのだから、肩を抱きあう結末となり、若い画家はもちろん不満そうな表情であるし、不満を言う。この展開はいささかバランスが悪くないだろうか。

☆見たかったのは、裸or老画家の手or絵画?

さんざんぱら作り上げた三角形の角を自らそぎ落とすという結末は、ジャック・リヴェットがどの程度コントロールして生み出したものなのかは分からない。彼は公式の台本を使わないで演技をさせる映画の監督をして名を上げてきた映画人であるからだ。エマニュエル・ベアールの肉体は豊満で、これぞマッスといいたくなるような腰つきである。それに対して男根的的性関係を結ばず、紙を削り取るようなペンと、黒い粉をまき散らすコンテと、油絵具を薄く塗る筆を、交互に握る老人の手を永遠と映すロングテイクを提示し続ける。この手はミシェル・ピコリではなく、劇中の絵を制作しただろう実在の画家によるものだそうだ。

デッサンもペインティングも作業を映すのは映画的であるが、作品はどれも大したことはない。油絵はオイルのエネルギーを感じない。ドローイングは、例えば彫刻家オーギュスト・ロダンがたぶんこの映画のように習作で作ったと思しき女の裸のものを見たことがあるが、とんでもない躍動感である。モデルを見ながら実際には5分くらいで描いたのだと思うがこの映画のものとはレベルが違うのである。

ということで、この映画の絵画制作の撮影はそれほどどきどきしない。画面に映る作品が一級の芸術家と比べると下手くそなのが一目瞭然だから。だからなのか、この映画は老画家が完成させた作品を映さない、一度も。端っこをちょっとだけ。女たちはその絵を見てコメントをするが、石壁に埋められてしまう。

タルコフスキーは『アンドレイ・ルブリョフ』で最後に絵を見せる。超クロースアップである。タルコフスキーがそのようにした理由はいくらもあるだろうが、当時のロシア人に普通に全体を見せるためにバランスのよいミディアムショットで映す必要はなかったのであろう。しかし『美しき諍い女』の場合には、タブローのクロースアップというわけにもいかなかったのかもしれない。タブローの表面までつまらないのだから。そうミシェル・ピコリが感じたのか、ジャック・リヴェットなのか、はたまたバルザックの原作なのか知らないが、完成した絵画をしまい込まざるを得ず、実際にしまい込むことになったのである。

そういうわけでジャック・リヴェットの監督術はあまりうまく機能していないのではないだろうか。この種の映画にありがちな、破滅と不幸のエンディングを回避しているのは新味なのかもしれない。しかしこれであれば、作家の永井荷風と娼婦のお雪の出逢いから始めて、生と性を混同した老人がフェードアウトしていく新藤先生の『濹東綺譚』(1992)のほうがずっと優れているのではないだろうか。

また、黒澤明は91年のベストに本作『美しき諍い女』を選出したらしい。本作を選ぶんだったら、鈴木清順が同じく画家を描いた『夢二』(1991)の方が妥当ではないだろうか?(^^)




4時間だが、長くは感じなかった。そこは立派。



別に他意はないのだが、「無修正版」というのをレンタルした。無修正しか選択肢はなかったし。今更に疑問なのだが、そもそも「修正」の必要があるのかね、この作品。もしこの程度のことに目くじらを立てるというのならば、うぶ過ぎるし、ひま過ぎだし、芸術への権力の介入だよ、映倫さん。
カラン

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