まぬままおま

なまいきシャルロットのまぬままおまのレビュー・感想・評価

なまいきシャルロット(1985年製作の映画)
5.0
クロード・ミレール監督作品。

めちゃくちゃ好きだ~
下高井戸シネマの場内には梅本洋一さんの論考(https://www.nobodymag.com/journal/archives/2022/0917_1133.php )が貼り出されており、そこで「距離」について言及がされていた。ミレール監督の映画との距離、登場人物との距離、学校といった制度からの距離。その距離が私の取りたい距離と似ていてとても心地よかった。多分、私は学校のような規律・規格化された思考しかできないし、それが性分に合っているんだけど、心の奥底では嫌いたいし、コンプレックスに思っている。そんな矛盾した距離。

クロード・ミレール監督の作風は「行儀がよい」。それはパンフレットの遠山純生さんのコメントでも言及されているが、同年代の有名監督は助監督経験を欠いて映画をつくっていたこととは反対にパリの映画高等学院(IDHEC)で学び、助監督や製作主任など下積みを経験しているからだろう。

本作の最初のシーンでは、ジュークボックスのレコードから音楽が鳴っている。音楽は劇伴としても機能するから、レコードが回っている映像イメージと音楽という音声イメージが編集によってつながり映画になっていることが分かる。この映画としてのフィクションが1シーンで上品に宣言されており、そこから心惹かれる。

ミレール監督の人物に対する「距離」もとてもいい。近過ぎず、遠過ぎず。それは盲目的に他者に接するわけでもなく、無関心として存在を抹消することでもない。だからより人物の多層的な感情や姿に眼差しを向けることができる。それがミレール監督作品に登場する人物が交錯する感情を抱えて「生きている」ように見える理由なのかもしれない。

本作のシャルロットに対する距離が最高だ。
彼女は学校にも馴染めず、家族とも上手くいっておらず、富裕層でもないからバカンスで遠くに行くこともできない。そんな彼女に光が射すように現れる同い年の天才ピアニスト・クララ。シャルロットはクララの付き人として世界を飛び回り鬱屈した人生から脱却しようとする。

本作はシャルロットがクララの付き人なる夢を全面的に擁護しようとはしない。それこそその夢を彼女は家族に打ち明けるのだが、誰も真に受けはしない。だがそれをくだらないものとも受け止めない。13歳の少女にとってはもっともありえることであって、そう思う理由がある。ルルが信じたように。

シャルロットの夢に対する行動が素晴らしい。彼女は、クララに近づくために年上の季節労働者に色仕掛けをする。その方法がリップをつけ、おしゃれな服を着ることであり、13歳らしい行動で可愛らしい。かといってその男に襲われたときは、ガラスでできた地球儀でぶん殴り、死んじゃったかもしれないと不安がるのもいい。世界を見渡せる地球儀をぶっ壊すことはシャルロットの夢の破壊であり、それを別撮りのスローモーションで表現しているのも面白い。

シャルロットの夢は、シャルロットとクララの眼差しが映画として合っているようにみえても錯覚であったように、夢物語でしかなかった。彼女がこれからも鬱屈した学校や家族、生活の中で生きなくてはいけないのはつらい。けれど私たちは、私たちの身が置かれている学校という制度や家族という親密な関係、生活という生きる場所に、盲目的に迎合することも逃れ去ることもしてはいけない。時には手を握り、批判するそんな距離が求められるのではないだろうか。それが「生きること」であり、ミレール監督が描こうとしたものの一つにも思える。

シャルロットは、悲しみのあまり鼻血を吹き出したルルと手を握っている。一夏の夢は幻であっても想像力の羽となって、彼女は現実を生き始められる。