ソフトサラダわがはい

百万円と苦虫女のソフトサラダわがはいのネタバレレビュー・内容・結末

百万円と苦虫女(2008年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

「来るわけないか」という言葉で締めくくられる。
「自分の心の形にピッタリ合う世界なんてない」というメッセージ。
これは一見すると自己蔑視しているように思えるが、明るい鈴子の表情から全く正反対の自己肯定を思わせる。
つまり、「彼が来るのではないか」と期待することは、「彼が来ない自分には価値がない」ということと表裏一体。
そうではなく、今直面している「彼が来ない現実」をそのまま受け入れる。
その「現実に直面する自分」、その自分を受け入れるという姿勢。
鈴子の持っていた世界に対する”不当な要求”、”甘え”を捨てた、とも言える。
今まで違和感を感じつつも流されてきた世界に対して、子猫に対する愛情で反抗の意思を向けたことから物語ははじまり、最後には世界から、人間関係からの依存の心理的な自立を果たす一人の女の子を描いている。

「前科という目に見える表面的な結果」と、「最低な男への仕返しという背後にある文脈」。警察官の尋問のシーンやうわべの付き合いの女友達集団がいかに、一面的な理解が人間の本質を見失わせるか、彼らの虚しい在り方を暗示している。見栄え重視、人間の本質部分の軽視を助長している中身のない社会への風刺を、「人生の文脈」と対立的に描いていると感じた。

結果以前のその人間の生きてきた文脈を読み取り、そこからその人間の本質を評価する。それは自分自身の評価においてもそう言える。人生の満足とは結果ではなく、それまで歩んできた人生の解釈だ。「彼が来なかった人生」を受け入れた鈴子は、真剣にぶつかり合ってこなかった家族関係や前科などのこれまでの自分の過去と向き合った。そして正しく解釈し、受け止め、その過去の延長線上である現在への一歩を100万円を持って歩き出した。一見するとすれ違った悲しいエンディングだが、鈴子の内面を見ればむしろ、すがすがしくたくましい人間性への変化を描いているように感じた。