Jeffrey

運動靴と赤い金魚のJeffreyのレビュー・感想・評価

運動靴と赤い金魚(1997年製作の映画)
4.8
「運動靴と赤い金魚」

〜最初に一言、イラン映画監督の第3世代に位置づけられるマジディの傑作中の傑作。ごくありふれた市民から材を採りながら、独特で感動的な作品を作り上げた本作は、ミニシアターの傑作にしてユーモア、繊細さが溢れる感動を我々に与える…魔法のように〜

冒頭、貧しい一家の兄妹。ある日、妹の靴を失くした兄が血相をかいて帰宅する。大人の世界と子供の世界。学校での出来事、砂糖、モスク、靴探し、高級住宅地、事故、両親の存在、盲目の人、下級生の子。今、少年はマラソン大会へ出場する…本作はマジッド・マジディが、1997年にモントリオール国際映画祭で大絶賛され、グランプリを含め4部門受賞し、アカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされたイラン映画の傑作の1つであり、彼の集大成である。この度YouTubeにてイラン映画特集を再びやるべく、BDを購入して久々に鑑賞したが素晴らしい。キアロスタミの「友達のうちはどこ?」同様にシンプルなストーリーでここまで泣かせてくれるのはイラン映画の特徴の1つでもある。靴をなくして妹のためにマラソン大会の賞品の運動靴をもらうために三等を目指す話なのだが、こんな単純な物語で全世界が大絶賛し、優しさが心を潤す感動作と世界から惜しみない拍手をもらった本作は、幼児映画としても私は推薦したい。ぜひともうちのお子さんたちに見せてあげて欲しい。

今思えば本作が97年第21回モントリオール国際映画祭にてグランプリと観客賞と国際カトリック教会賞、国際批評家連盟賞の4部門に輝いたのは、市川準監督作の「東京夜曲」も確か受賞していたことを思い出される。アジアフォーカス福岡映画祭で上演された本作は、観客たちに主人公である兄妹の走る姿に心温まるラストシーンに胸を熱くしたと大絶賛していた。当時監督は来日し、大絶賛を浴び、熱心なディスカッションをしていたのを思い出される。そして99年にアカデミー賞で「Life is Beautiful」、「セントラル・ステーション」などとともに外国語映画賞にイラン映画として初めてノミネートされたのも本作である。ちなみに99年はロベルト・ベニーニ監督の「Life is Beautiful」が受賞した。ウォルター・サレス監督の「セントラル・ステーション」もブラジル映画として、ベルリン国際映画祭最高賞の金熊賞を受賞した子供のロードムービーである。この3作品も全て子供が主人公だ。

そもそもなぜ日本に紹介されるイラン映画が子供を主人公にしているものが多いのか、すごく気になって昔に調べたことを思い出す。イランにはイスラム教の規範に沿った検閲があるため、それに引っかからないように様々な問題をクリアするために監督たちが見つけ出した解決方法の1つである。ところが、結果的にはキアロスタミの「友達のうちはどこ?」やパナヒの「白い風船」(ちなみに白い風船は残念ながら日本ではVHSのみになる。とんでもなく傑作なのに)のように、児童映画の範疇にとどまらず、世界中の映画祭で認められるような優れた作品を生み出してきたのは誰もが知っていることだ(女性の権利や自由を描いた"私が女になった日"等)本作に限っては、兄妹の心の触れ合い、家族の絆を描いたものになり、まさにそうした作品の貴重な1本である。この作品に出てくる兄妹はものすごく優しいのである。それは下校中に妹の靴が他の子供が履いていたのを発見して、翌日兄と一緒にその家に行こうとする途中で、家族が自分たちよりも貧しく、さらに父親が目が見えないのを知って、それを言い出せなくなるのである。

それだけではなく、映画を通して、イランの子供たちがこのように悩みながらも懸命に日々を生きていると言うことを見事に描写している。男の子の日常、女の子の日常、家族の問題の中をどうくぐり抜けて行かなくてはいけないかと言う日常が丹念に写し出される。大人がもし靴をなくした所で、また新たに買えば済むと思うのだが、子供たちの世界ではそうはいかないのである。その点、この作品はこのような大人の目線ではなく子供目線で大人の社会を捉えている側面もある。例えば、八百屋で靴をなくしてしまったアリが、一生懸命屋台の外を探しているときに、その店主がさっさと行け邪魔だどけ消えろ的な行為を出すシーンなどを思いっきりそうである。アリはきちんと靴をなくしてしまったと言う事情を伝えているにもかかわらず、そんな事は知ったことかと言う冷たい態度をとるのだ。だから本作は大人にとってはどうってことない事柄についても、子供たちにとっては大事であり、その中で悩んだり喜んだりしながら成長していくと言うことを監督は訴えかけている。大人の世界が厳しくて怖いものだと言うのを知っている主人公の少年は、いかに親が恐ろしい存在であり、自分たちなりに解決しようと努力しているのがフィルターを通して伝わる。過剰なほどまでに、靴をなくしたことを親に知られたくない少年の怯える表情を見ると何とも胸が痛くなる。

キアロスタミの作品にも本社君にもイランの学校が写し出されるのだが、イランの学校と言うのは就学率はほとんど100パーに近くて、年間授業日数は200日で新しい学年は通常9月23日に始まり、翌年5月20日に終わる事は有名だろう。小学校では毎日の授業時間は5単位時間で、1単位1時間45分であり、科目はペルシア語(国語)、宗教(イスラム教)、数学、理科、社会、図工工作、体育の7教科である。現在、授業時間は、午前7時半から12時と午後1時から4時に分かれており、生徒も午前と午後に分かれている。校則はかなり厳しく、髪の毛や爪の長さを校長先生が朝調べたりする。罰の例として、皆の前で立って片足をあげたり、次の日に両親を読んでくるなどである。そしてイランの金魚についても話したいのだが、イランでは、金魚は大変おめでたいものとされ、特にお正月には部屋の飾りものとして、なくてはならないものであるということだ。

金魚の赤色は縁起の良いこと、水の中を泳ぐ様は元気でいること、生命の息吹の象徴である。イランのお正月は日本の春分にあたるが、3月上旬ごろから街には金魚屋さんが縁日のように軒を並べて始める。安価な金魚は、貧しい者にも買える縁起物なのであり、人気だそうだ。お正月が過ぎると、兄の住んでいるアパートにもあったような中庭の池へと放し、次のお正月にまた新しい金魚を求めるのである。今思えば子供映画と言うのはキアロスタミ、ベイザイと言った新進映画監督が、70年代初頭、協会で映画デビューを果たしたことに始まるだろう。イランの子供映画が国際的にイラン映画が注目されるための大きな役割を果たしてきたし、ニューウェーブの始まりと一致している。それにイランで子供の映画の伝統が確立されたのは、キアロスタミの大成功によるものというのは誰もが認める事実だろう。彼の映画に触発されて、多くの有望なイランの新人映画監督は数あるジャンルの中から子供の映画を選ぶことを勇気づけられたと皆が口を揃えて言っていたし、他にもこの分野で有名な監督は山のようにいる。悲しいことに、イランでは子供のスターがまだ出てこないと言うことである。映画を見るたんびに素晴らしい芝居を見せてくれるが、そういった子供たちは1度きりの出演で、後はゆくえしれずつが多い。唯一キアロスタミの「友達のうちはどこ?」(ジグザグ道三部作)の続編として主人公の少年の成長が見れたのは奇跡だろう。前振りはこの辺にして、物語を説明していきたいと思う。


本作は冒頭に、赤い靴を修理している職人の手元が固定ショットで長回しされるファースト・ショットで始まる。太い針を繰り返し靴に刺して縫っている。数分後、カットは変わり、職人の老人、椅子に座っている男の子が映し出され、現金を渡し靴を修理してもらう。出来上がり、彼はその場から立ち去る。カットは変わり、釜でナンを焼いている場面になり、その少年がそのナンを1枚ずつ丁寧に折りたたみ布に包んでいく姿が写し出される。そして彼は続いて八百屋さんでジャガイモをくださいと店主に伝える。彼は床に落ちているお粗末なじゃがいもを選ぶ。店主は札束を手で数えている。そこに浮浪者の男がやってきて、外に置いてある袋を断ってもらう。そして彼の靴がなくなってしまう事件が起きる…さて、物語は、少年アリは修理してもらったばかりの妹ザーラの靴を買い物の途中でうっかり失くてしまう。屑屋が誤って持っていってしまったのだ。

親にも言えず、靴が一束ずつしかない2人は、まず妹が兄の運動靴を履いて学校に行き、下校途中ではきかえて次にアリが学校に行くことにする。そのためアリはどんなに走っても遅刻してしまい、先生に目をつけられてしまう。彼の家は貧しく家賃も滞りがちで、その上洗濯で水を使いすぎると大家から毎日のように文句を言われている。ぎっくり腰も患って、母はいつも気分がすぐれない。そのことで父も小言が多くなり、靴の事はますます言い出せない。一束の運動靴を大切に履こうと、2人は片方ずつを一緒に洗う。だがザーラはやっぱり、ありの靴を履いて学校に行くことに我慢できない。アリの運動靴はぶかぶかで、抜けて溝に落ちてしまったり、学校でもいつも恥ずかしく思っていたのだ。そんな時、彼女はなくなった自分の靴を下級生が履いているのを見つけた。靴を返してもらおうとアリと2人でその子の家まで出かけるが、彼女の父親が目が見えないこと、自分たちよりも慎ましい暮らしをしていることを知って言い出せなくなる。

モスクの集会で、金持ちの家に飛び込みで庭の手入れに行くと、いい小遣い稼ぎになると教えられたありの父は、早速休日に息子を連れてお屋敷街に向かう。臆して戸惑う父だったが、アリの機転でうまく仕事にありついた。アリと同じ年頃の少年がおじいさんと2人で住んでいる家では、報酬も弾んでくれた。帰り道、アリが父に妹の靴を新調してくれと頼むと、このアルバイトを続ければ何でも買ってあげると言ってくれた。だがその直後、2人の乗った自転車のブレーキがきかなくなって街路樹に衝突し、父は大怪我をしてしまう。やっぱり靴は、買ってもらえそうにない。そんな時、小学生のマラソン大会が行われることになり、彼の学校でも選手が募集される。

よく見ると3等の商品は運動靴。新品の靴ならば、靴屋で女の子の靴と変えてくれるだろう。締め切りは過ぎていたが、彼はどうしても出場しなければならないと頼み込み、先生も彼のタイムを計って出場させることにする。いよいよマラソン大会の当日。彼は妹のために3等になろうと必死に走るのだった…とがっつり説明するとこんな感じで、この映画よくよく見ると、子供たちが一切大人たちに事情説明しないで自分たちの力だけでやり切ろうとする姿を映している。それはキアロスタミの作品とかとは大いに違うのである。最後の最後まで努力を描いているのは、我々観客を結びつける唯一のドラマ的な役割を果たしていると感じる。もしこの作品を見て気に入ったら、イブラヒム・フルゼシュの「鍵」と言う作品もお勧めする。どこかしらデ・シーカの「自転車泥棒」を思い出すが、全体的にハッピーエンドに持ち込まない本作の手法が圧倒的に自分を評価している。


いゃ〜、久々に見返したけどやっぱり傑作だわ。昔DVDで見て、今回はBDで鑑賞したため非常に映像がきれいになっていた。この作品に出てくる母親は、そこまで出番がないが、非常に印象残す。母親の表情から現在のイランの社会状況を巧みに見てとれる。なぜならば、まず家賃滞納で毎日大家に文句を言われ辟易としている母親の姿があり、またそういったことを自分で解決しようとするから大黒柱の旦那に叱られるのだ。さらに母親は絨毯の洗濯など、重い家事労働で腰を痛めてしまう。これだけでイランの特殊な宗教から、伝統、文化が垣間見れるのだ。それはもちろん女性が試着しているファッションからもうかがえる。そして極めつけは、ほぼ終盤のシーンで、マラソン大会に集まる小学生たちの階層、地域が違っており、様々なジャージやスニーカーを履いている姿を見ると、貧困から裕福さが如実に一つの空間に集合し我々に直視させるのだ。ネタバレになるためあまり言えないが、マラソン大会に出場したアリがゴール付近で富裕層の子供に突進されて転ぶシーンがあるのだが、あれなども思いっきり貧困層の彼に負けたくないと言う裕福な少年のプライドが出たばかりに起こったアクシデントだと思う。

そして父親と一緒に自転車に乗って高級住宅街に行った際なども、彼らが住んでいる悪劣とした生活環境とは打って変わって整備された美しい住宅地の対比なども強烈だった。だが、私が最も強烈に胸にきたのが、貧困ながらに、隣の老夫婦に夕飯を分ける思いやりを忘れていない両親の立派な姿である。さらにモスクで飲むお茶のための砂糖も決して自分たちのためには使っていないのだ。このシーンがなんとも胸に来た。現在のイラン社会や、そこで生きる人々への目配りがあるからこそ、この兄妹の悩みがリアルに普遍的なものとして我々観客に迫ってくるんだと思う。だから私自身も映画を見ながらこの健気な兄妹を応援したくなるほど握りこぶしを作り一緒にマラソンを走った気分で映画を鑑賞してしまうのだ。たった89分しかない短い映画にもかかわらず、大人の社会に起こったことも、子供の世界を通して描いていて、問題の提議している。ここから、私が印象に残った場面を紹介したいと思う。


妹の靴がなくなってしまって、探していたら野菜などが置いてあった棚をひっくり返してしまい、その店主に怒鳴られて涙目になって血相かいて家に戻ってくるシーンは胸が痛い。そして妹に事情を話して、お母さんには内緒だよーって言って探してくるんだけど、イラン映画をことごとく見てる自分からすると、イランと言う社会では子供はとりあえず親に些細な出来事が垂れてしまうと叱られるので怖いと言う概念があるようだ。アリ君のあの表情が瞼の裏につく…。イランの子供たちの表情って本当に豊かである。そして男女格差、いわゆる男性が絶対的地位の宗教と文化を持つイランでは、大家さんと奥さんが話し合いをしていて、それを父親である自分が知らされていなかったことに対して怒るシーンなども、まさにイラン的である。これも我々からすれば些細な出来事で、この些細な事柄が大事件とつながっていく映画でアカデミー賞を受賞したアスガル・ファルハーディーの「別離」がある。これはささいな嘘から始まり、宗教(神)を巻き込む大騒動へとつながり、悲劇的な幕引きとなる映画で、私の2010年以降に日本で公開された映画のトップテンに入れた大傑作である。

そしてペルシャ絨毯の下で勉強しているお兄ちゃんと妹がノートで靴がないなら私、明日はどうやって学校に行けばいいのと言うのを交換ノートをしている場面は愛くるしくかわいい。そしてカメラが妹のノートの上に置いてある小さな手のクローズアップをするのだが、お兄ちゃんがノートに書いた"頼む"と言う文字を読んで、いろいろ考えている場面で、お兄ちゃんが新品の鉛筆をあげると言って、彼女のノートの上に置くのだが、そのショットがすごく胸にくる。兎に角、兄は親に靴をなくしたことを知られたくないようで、必死なのだ。そして翌日の場面で、お兄ちゃんの大きなスニーカーを履いて涙を流しながら自宅の扉を開けて外の世界へと行く妹の登校シーンが写し出されるのだが、次のショットで、子供たちの足元が写し出されて横へスライドし、様々な足元(靴)が写し出される描写は印象的だった。

一方、お兄ちゃんは妹がスニーカーを履いてしまったため、サンダルで外を歩くのである。妹は必死で学校帰りの通学路を走って、お兄ちゃんに靴を渡す。妹が汚い靴を履くと恥ずかしいからと言い、お兄ちゃんが当だったら洗おうと言って2人で洗うシーンがあるんだけど、ここで初めて音楽が流れていい雰囲気になる。そっから、いつもの路地裏で待ち合わせして、スニーカーを交換するんだけど、この日たまたまテストが長引いてしまって、妹が早く自分の課題を終わらせて、先生に提出して早めに学校切り上げて、走って兄貴のところに向かうんだけど、途中で靴がぶかぶかで溝に落っこちてしまって、水の流れに追いつかずに、途方に暮れているところを、街のおじちゃんに靴をとってもらって、なんとか兄貴のいるところまで行くんだけど、そのシーンの場面も心苦しい。そこからお兄ちゃんが遅刻してしまい、先生に注意されるときのイラン独特の大人の方に説明する際に右手を上げて断りを入れてから話すシーンも印象的だ。欲を言えば、クライマックスに、新品の靴を〇〇した姿を〇〇して欲しかったが、それは逆にやりすぎな感じもする。僕たちの想像の中で収めておきたい帰結だなと思った。

そして大きな自転車に乗って父親と一緒に庭師の仕事を雇ってくれないかと高級住宅街に行く場面で、父親がなかなかインターホンの前で言えずにいると、息子が淡々と説明する場面で、息子を褒めて、少年が笑顔になるシーンはすごく好きである。この2ケツのシーンはジャック・タチ監督の「ぼくの伯父さん」を一瞬思い出す。数秒間だけど、なぜだか思い出してしまう。そしていよいよマラソンに参加して、風光明媚なコースをロングショットで捉えつつ、妹が疾走する場面とお兄さんが走っている場面のクロスカットがなされ、懸命に走る彼の姿がすごく良かった。そこに音声フラッシュバックとして、妹の会話が聞こえ、徐々に先頭走っている子供たちの吐息が生々しく聞こえ、他の選手に妨害されて転んでしまっても、懸命に走り続ける少年の姿をスローモーションで捉える横のショットはとんでもなくすばらしい(音楽も良かった)。そして期待されていなかった彼が首位に躍り出たので、教員たちが拍手して応援している場面も写し出されるクライマックスのゴール付近は圧倒的である。

その結果はネタバレになるため話さないが、この帰結の仕方は、非常に好みである。一見、儚く終わっているように見えるが、そんな事は無いのである。それは映画を見た人なら誰もがわかることであり、父親の自転車の荷物置きが答えだ…。本作は子供らの目線の切り取り方や出だしとラストの結び方のを巧さ、些細な風景の捉え方までキアロスタミと類似する。ここで少しばかりキャスティングについて話したいのだが、主人公のあアリ役の男の子は、小学校で先生に叱られて泣いているところを監督が目撃し、抜擢されたようだ。妹役は、キャスティングそのものは簡単に決まっていたらしいが、引っ込み思案な彼女の性格から返事をもらうまで時間がかかったそうだ。そんで1番こだわったのが父親役だったらしい。監督はその性格設定からトルコ人にしたかったが、トルコ訛りにはプロの俳優でさえ難しいとのことで、関係者がトルコ系移民が集まる茶屋を一軒一軒回り、演技も巧みなトルコ人の素人をやっと見つけ出したらしい。これがこの作品の水準を高めた素人の"プロ"である。

今思えばジャリリ監督の「かさぶた」「7本のキャンドル」同様に子供を主人公にして、反政府的な内容を描いている作品と言うのはイランでも上映がことごとく禁止になっている。マフマルバフ監督の数多くある作品もそうだし、彼の長女であるサミラのデビュー作「りんご」もそうであるように、非常に世界に発信するのが難しい国柄である。「運動靴と赤い金魚」は、幼児青少年知育協会が制作費を全面的に出したらしいのだが、子供映画としても見れるが、イランの社会を浮き彫りにしている映画とも見てとれる複雑な映画の立ち位置に置かれていると思う。本作でさらに印象的なところを付け加えると、子供目線からの勝手な思い込みが写し出されている。何が言いたいかと言うと、両親に靴をなくしたことを告げられないのは、両親が靴を一束しか購入できないほど貧乏だと言うことを子供的に理解しているからであり、下級生が妹の靴を履いているのを見かけても、自分たちよりも貧しい生活をしていると子供的に判断したためで、言い出すことができなかった。要するに、この映画の子供たちは自分たちの判断で解決しようとするのである。

そんで妹がその下級生の少女が、新しい靴を買ってもらって、古い靴(妹の靴)を捨ててしまったことを知って内心傷つくシーンが非常に印象を受ける。怒るのかなと思いきや、にっこり笑って、落としたペンを返してもらう場面である。しかし妹の表情は少なからずともこわばった表情をしていたように見えた。結局のところ、全て逆のことをしていればどういった物語になっていたのか、想像してしまう。素直に両親に靴をなくしたことを言えば、何とかなったかもしれない。新しい靴を手に入れることが可能だったかもしれない。下級生の家族にきちんと事情を説明すれば靴は返ってきたかもしれない、もしくは靴が捨てられるような事は起きなかったかもしれない。そういった自分の視点で見つめて、判断して行動すると言うのが終盤のドラマを劇的にしたことに最終的にはつながるので非常に良かったと思う。その最終的なシーンで、金持ちの子供たちは順位に興味を持っているが、アリ君だけは順位なんて関係ないのだ。3等の運動靴さえ手に入れば良いのだ。逆に、富裕層の子供たちにとって、運動靴なんて親に頼めば買ってもらえるようなものでしかなく、順位は買ってもらえないため、実力で自力で頑張るしかないのだ。

このマラソンのシーンでは、もう一つ如実に現れる貧富の差の決定的な問題が描かれている。それは応援に駆けつけた親御さんである。金持ちの家族は応援に来ているが、貧乏人の家族は来ていないのだ。それは貧乏人=仕事に追われ、観に来る暇もないと言う事をメッセージとして捉えれる。だから実際に彼の目的を知っている妹も家事の手伝いで来てくれていなかった。そうすると、監督を少年の目的を知っているのは登場人物ではなく、我々観客だけと言う事になる。そして必死に走った彼が皮肉にも〇〇してしまったことによって〇〇が起きる。ここ1番伝えたいのだが、これを言ってしまうとこの映画の面白みが半減してしまうため伝えられない。そしてほぼクライマックスでボロボロになったアリの足が映されるのだが、きっとその足は少年の心をそのまま映しているように感じる。あの敗北感を…。そしてその足に群がる〇〇たちは唯一の救いであり、癒しの存在なのかもしれない。最後まで問題をなんとか自分の力で解決しようとした結果がこの作品の大団円であり、証人となるのが我々自身なのだ。




長々と書いたが、最後に少しばかり余談話をしたい。本作のアイディアは、友人が聞かせてくれた実話から生まれたと監督が言っている。貧しい地区のその友人の隣に住む兄妹の話だったらしく、彼らは一束のスニーカーを2人で使わなければならなかった。その話が心に深く残り、次第にその話をベースに映画を撮ることを決意したそうだ。その兄妹には1度も会った事はないが、愛しさと敬意を感じ、2人のことを映画で語らなければならないと感じたと言っている。ちなみに脚本は5カ月間、連日9時間机に向かい一心不乱に取り組んだそうだ。そしてラストの金魚のシーンは、かなり苦戦していたと言っていた。ところで、イランには検閲文化があり、検閲は文化省とイスラム教指導部の管理下であり、約8人(そのうちの執行責任者は、盲目の人)で構成される委員会が脚本と同様に俳優や全てのスタッフのリストを調べ、フィルムが編集されると最後にもう一度審査し、ようやく上映許可の証印を交付するとのことだ。また、非公式の検閲も時々行われたりする。例えば、撮影現場においてそこでの雰囲気や、映画祭の時、手続きの最終的段階に陥る時間もないフィルムのサウンドトラックに対して検閲が時々行われることなどがある。理論上はすべてのフィルムに対して検閲が適用されているのだが、数人の映画監督や俳優、とりわけ旧体制下から活動している人々は、革命以以降の若い世代の人々よりも厳しい検閲を受けているとのことだ。まだこの作品を見ていない方はぜひとも鑑賞をお勧めする。傑作だ。
Jeffrey

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