明石です

三つ数えろの明石ですのレビュー・感想・評価

三つ数えろ(1946年製作の映画)
3.8
レイモンド・チャンドラーの処女長編『大いなる眠り』の映画化第1作目。先日見たエリオット・グールドの『ロング・グッドバイ』がいささか消化不良だったので、初代フィリップ・マーロウことハンフリー・ボガート主演の本作に手を出しました。チャンドラーの大ファンで、彼の小説を全作読んだ上での視聴です。

まずロング・グッドバイと比べて。一般的な評価はあちらのほうが高いみたいですが、私は断然こっちの方が好き。ボギー主演の本作に比べれば、ロング・グッドバイは完全に雰囲気映画でしたね。(あとで触れますが、身長以外は)きわめて原作色の強いマーロウに、気の利いた会話や個性的な悪役など、原作リスペクトの詰まった、チャンドラーファンの嗜好も満たす映画といった感じ。過度なエロ&暴力表現がなく、薄味ながらもてきぱきとコトが運んでいくのも好印象。

原作では冒頭一発目の会話が「背が高いのね(byカーメン・スターンウッド)」から始まるので、ボギーが主演の映画版ではどうなるのかなと思って観てたら”You’re not very tall.”「小柄なのね」に変わってて笑った。そしてその返しが”I tried to be.”「努力はしたさ」でさらにほっこり。ハンフリー・ボガートがフィリップ・マーロウを演じる点について、おそらく誰もが(唯一)気にかけるであろう点にいきなり触れていくスタイル。冒頭ですでに好きになった笑。

そして原作からのほとんど唯一のプロット上の変更点として、キーパーソンである失踪者リーガンが、原作ではヴィヴィアンの夫だったのに対し、こちらではスターンウッド家の勤め人になっている。ストーリーも台詞もこれだけ原作を忠実に再現しているのに、どうしてそこだけ映画版オリジナル?と思って観てたら、終盤で疑問が氷解しました。ボギーとローレン・バコールのラブシーンに繋げるための布石だったのですね。既婚者相手の不倫じゃ体裁が悪いと…笑。

全体的な印象としては、昔の映画らしく、たとえば明らかに手加減したような腰の入ってないパンチで誰しもが一発で気絶してしまうなど、暴力シーンはかなり控えめ。また無意味な裸体の露出もなく(特にニューシネマの時代に作られた『ロンググッドバイ』に比べるとそれらの差は顕著)、なおかつ恋愛要素が強く甘ったるさを感じた。良くも悪くも。「なぜ私を気にかけるの?」→「君を愛してるからさ」という会話は、ハードボイルドの体現者たるマーロウらしくないといえばないですが、厳然たるハリウッド映画だと考えれば、わかりやすいラブシーンの存在は必然なのかもしれませんね。原作のマーロウは女性に対して硬派に過ぎ、また欲望にストイックに過ぎる。相手が依頼人とはいえ、美しく気立の良い女性とは適度に恋に落ちたほうが人間らしいなと思った。ボギーとバコールが当時すでに夫婦だったことを忘れて楽しみました笑。

ただ総じて言えるのは、レイモンド・チャンドラーの小説をは文体にこそ魅力があるのであって、物語にはあまりフックがない。というか『ロング・グッドバイ』以外のほとんど全ての作品がストーリー的にはかなりのポンコツ。誰が誰を殺したのかがよくわからないという、謎解きが主眼のミステリー小説にあらまじき整合性のなさが逆に売りでもあるくらい笑。なので、たいていのチャンドラーファンは(ストーリーよりも)巧みな比喩と気の利いた会話を求めてこの人の作品を読んでいるはずなので、映画版の存在が必要かというと首をかしげざるを得ない。結局のところ、名優たちの素晴らしい演技をもってしても、小説のほうが優れてるという感想は変わらずでした。まあでもそれは始めから明々白々というか、いわば名作の定めなので、いまさら言っても詮ないことですね。

しかし『三つ数えろ』という邦題はちょっとないかなと思う。三つ数えろ、というのは単に作中のワンシーンに言及してるだけで(しかもそのシーンというのがいかにもハリウッド用に脚色されたセンセーショナルな代物)、作品全体を俯瞰したタイトルでは断じてない。何よりこの映画は小説の会話をそのまま生かすなど、相当に原作をリスペクトした作風。にもかかわらず原作と全く関係のない邦題をつけるというのはいかにもナンセンスだと思う。これは常々思うことですが、小説の新訳が出た際にタイトルが変わったりするのと同じように(ex.『長いお別れ』→『ロング・グッドバイ』)、映画も時代時代にあわせて邦題を刷新していったらよいのでは?と思う。特に本作みたいに、作品の趣旨と邦題とが明らかに乖離してる場合には。


—好きな台詞(映画版のオリジナルのみメモ)
「私には偽善者ぶるほどの人生が残されてないんだ」
「次は白のネクタイをして竹馬に乗ってくるよ」
明石です

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