きゃんちょめ

ノートルダムの鐘のきゃんちょめのレビュー・感想・評価

ノートルダムの鐘(1996年製作の映画)
5.0
【『ノートルダムの鐘』について】

『ノートルダムの鐘』は、そもそも原題がThe Hunchback of Notre Dameで、「鐘」なんてひとことも言ってない。おそらく、Hunchbackという言葉の翻訳に困ったか、もしくはなんらかの配慮が働いたのだと思う。

『ノートルダムの鐘』のカジモドは、どう見ても「くる病」なんだが、顔の骨格が異常な変形をする病気だという。

だから当時はキリスト教の施設で隔離されていたようだ。特に当時のフランスはキリスト教が牛耳ってる国だった。

作品中に「エスメラルダ」っていう名前のめちゃくちゃかっこいいジプシーが出てくるんだが、僕は昔ジプシーに俺はパリで財布をパクられて、取り返したことがあるのを思い出した。

あと、「ジプシー」は今は差別用語なので今は「ロマ」って言うべきらしい。俺は「カジモド」はディズニーキャラクターの中でトップクラスに好き。主人公なのに、顔に変形があるせいで、子供が見たら悲鳴をあげるような風貌をしている。ディズニーのくせに、世界の理不尽さをきっちり描いているのがこの作品だと思う。

特にこの映画は、「倫理屋の欺瞞」がテーマになっていることも評価ポイント。

エスメラルダが魅力的すぎて、欲望を刺激されて苦悩する変態判事が悪役だから。

おすすめのナンバーはもちろんアウトゼアで、これは当時のパリをノートルダム寺院から一望しながら、カジモド全力で歌うんだけど、歌詞がめちゃくちゃ悲痛で、

「彼らが「当たり前」だと思っているものが僕は欲しくてたまらない」

という歌だから。もはやみんなのスタート地点がカジモドのゴール地点であることがこの曲からよくわかる。

Out there among the millers
and the weavers and their wives
Through the roofs
and gables I can see them
そこでは
製粉業者や織物業者や
その妻たちにまじって
屋根やひさしの間から
僕には彼らがみえる。

Ev’ry day they shout and scold
and go about their lives
彼らは毎日叫んだり怒鳴ったりしながら
人生を忙しく過ごしている

Heedless of the gift
it is to be them
彼らであるということのありがたみに
気づきもしないで

If I were in their skin,
I'd treasure every instant
もし僕が彼らのような身体(立場)だったら
僕はすべての瞬間を大切に生きるだろうに

というこの部分の歌詞を聴くと私は必ず泣いてしまう。



【ここからは少し踏み込んだ話】
パリの中心がノートルダムなのではない。ノートルダムの鐘の音が聞こえる同心円空間をパリと呼んでいるのだ。

だから、新建造物が作られるたびに、中心がズレ続けるのがパリの都市社会学的な特徴。だから、パリの中心がノートルダムであり続けるのは、ある種当たり前なんだよね。だって、鐘の音を鳴らしてるのが、まさに非合理の象徴である奇形カジモドなんだもん。

ノートルダムってフランス語は、『私たちの婦人』って意味で、それってつまり、マリアのこと。

そもそも、ウォルト・ディズニーは会衆派のカルヴァン主義の家に生まれてる。だからゴリゴリのプロテスタント家系だったわけだ。ウォルトって名前も有名な牧師のウォルター・パーから取られてる。

でもそんな家庭と社会の雰囲気に嫌気がさしたのか、ウォルトは若い頃、全然教会に通ってない。

ちなみにこの時期は禁酒法で社会もプロテスタント系ゴリゴリだった。このころのウォルト・ディズニーのイラつきが、禁酒法解禁されてから7年後の『ピノキオ』におけるプレジャーアイランドでのデロデロになるトリップシーン、その翌年公開の『ダンボ』でお酒を飲みまくるトリップシーンになっているらしい。

ちなみに、ダンボにおけるピンクの象ってたしかドラックのメタファー。

この映画『ノートルダムの鐘』における背柱後湾症は奇形と非合理のメタファーなのは明らかなんだが、重要なことは、デヴィッド・リンチの『エレファントマン』と同じく

<軟禁されたフリークス>

という形象分類だということ。

カジモドが鳴らす非合理の音がなる範囲には、その裏面である合理化されたパリ市街地が広がる。

さらにその裏面である地下には大量の人骨。あれはカタコンブというパリに実在する地下墓地。広さは800ヘクタールと言われている。

ところで、なぜエレファントマンとカジモドを同じ次元で語れるかというと、ちゃんと根拠がある。

二人とも趣味が模型作りだから。


ちなみに、エレファントマンがロンドンで監禁されてたときに作ってる模型は『大聖堂』だったから明らかにお互いを意識してる。完全にデヴィッド・リンチはこのノートルダムの鐘を意識してるということ。


フロローは美徳の背後にあるやましさのメタファーだとしたら、この作品自体、真のキリスト教倫理と偽のキリスト教倫理の差異を描こうとしているように見える。

ジプシーのエスメラルダが自分にとって異教であるキリスト教の神に祈る歌『ゴッドヘルプ』からもそのことは明らか。

歌詞の内容は以下の通りです。

神に私の声は届くのでしょうか。
それ以前に、
あなたは実在するのかしら。
私のようなジプシーの祈りを
あなたは聞いてくれるの?
そうよ、私は日陰者の身。
あなたに話しかけられる立場にない。
それでも思わずには居られない。
あなた(イエス)も昔は日陰者(異教徒)
だったはずよね。
神よ。日陰者を許して。
ひもじい思いをしている者を
彼らに情けをかけてください。
この地上では得られぬ情けを。

<沈黙する神>に、それでもすがるのがエスメラルダ。実はこれ、原始キリスト教の立場にかなり近い。

だってイエス本人だって散々異教徒扱いされて迫害されてたやん。その一方で、パリの民衆はひたすら次のようなコーラスをしている。

富が欲しい。
有名になりたい。
自分の名前を栄光で輝かせたい。
所有できる愛が欲しい。
神よ、天使よ、祝福を。


要するに、この歌詞で分かるのは、ウォルト・ディズニーがいかに世俗化したキリスト教が醜いかを描いてるってこと。

異教徒のエスメラルダのほうがよっぽどキリスト教の本質をよく理解してるわけだ。

この映画は、政教分離を描いた作品でもある。「サンクチュアリー!」とカジモドが叫んでいるが、あれは「政治の世界という汚い世界の論理が宗教の世界という清い世界に侵入してくるな」という意味で、現代使われている単なる世俗主義としての政教分離とはまったく違うことを言っている。カジモドが唱えるほうが本来の政教分離だと思う。現代の政教分離は、「宗教の世界という私的世界の論理が政治の世界という公的世界に侵入してくるな」という意味に過ぎない。もちろん、政治は恣意的観点からではなく、利益の分配を適正な手続きに従ってできるだけ公平に行うためのものだから、特定宗教に優先的に公金が流れることで起きる政治的な不正義はたくさん想定できそうなのだが、政教分離というのはそもそも、利益と合理性を重視することで利益を合理的に配分しようとする正義の思想を、宗教の世界には持ち込まないようにしようという意図もあったのである。要するに、カネ勘定や、人の作った秩序というものを宗教の世界に持ち込みたくなかったのである。

エスメラルダにどうしても恋をしちゃってそんな自分が許せないフロローの歌『罪の炎』の歌詞はもっとやばいと思う。

私の高潔さを
マリア様はご存知でしょう。
この徳の高さは
私の誇りです
マリア様ならご存知でしょう。
私が皆より純粋なことを。
そこらの粗野で弱く不道徳な
連中とはちがうのです。
マリア様
それなのに
なぜあの女の踊る姿が
目に焼き付いて離れないのですか
なぜあの女の燃える目が
私の魂を焦がすのでしょうか。
地獄の炎が
私の肌を火照らせる
燃える欲望が
私を罪に引きずり込む
こうなってしまったのは
私のせいではない!
あの女のせいだ!
あの魔女め!
あの女がこの炎を引き起こした!


これぞ映画だと思う。パリに行くときは絶対に参照したい映画。ヴィクトール・ユーゴーの原作小説も読んだ方がいい。
きゃんちょめ

きゃんちょめ