Jeffrey

放浪の画家 ピロスマニのJeffreyのレビュー・感想・評価

放浪の画家 ピロスマニ(1969年製作の映画)
5.0
「放浪の画家ピロスマニ」

〜最初に一言、私のオールタイムベスト級の大傑作。グルジア(ジョージア)映画史上の見事なまでの芸術を極めた作品で、古い歴史、豊かな山河、荒地の風土、そして動く絵の如く美しい映像で語る孤高の画家への追憶を描いた正にシェンゲラーヤ監督のこの上ない"神"映画。いちどこの作品を見たら二度と忘れる事は無い。永遠に脳裏に焼きつく壮大な叙事詩である。私はグルジアの映画作家で彼とパラジャーノフ、イオセリアーニを最強と呼ぶ〜

冒頭、19世紀から20世紀初頭のロシア帝国下のグルジアのチフリス。画材を小脇に抱えて酒場を回り、その日の糧や酒と引き換えに、店の看板や壁に飾る絵を描く一人の男。素朴な人柄、乳製品の店、娘への恋文、白牛、破綻、病、戯画、失望、原風景。今、古い歴史と豊かな山河と荒地の風土が映る…本作はゲオルギー・シェンゲラーヤ監督によるグルジア(ジョージア)の素朴派の画家ニコ・ピロスマニの数奇な生涯を描いた1969年の伝記映画で、この度BDにて久々に見返したが傑作。何が凄いって動く絵の如くフレーム内が絵画そのものである事。あのパブロ・ピカソが、私の絵はグルジアには必要ない。なぜならピロスマニがいるからだと言わしめた作品であり、古い歴史、豊かな山河、美しい映像で語る孤高の画家への追憶であり、73年の英国映画協会サザーランド杯やシカゴ、イタリア、日本においては文化庁芸術祭優秀賞などを受賞している。ピロスマニは貧しい絵描きと女優の哀しい恋を歌った"百万本のバラ"のモデルとしても知られていて、監督は、名も知れず清冽に生きたピロスマニの魂を、憧れにも似た情熱で描くとともに、グルジア(ジョージア)の風土や民族の心を見事に映像化した作品で、今回デジタルリマスターで再鑑賞したが文句のつけどころがないほどやはり素晴らしい映画だ。

今思えば、この作品も1978年に岩波ホールで初めて上映されており、2015年に再上映するまで見る術がなくてすごいモヤモヤしていた自分がいたことも蘇り、今回久々にまた見返したが、その当時監督は確か来日して日本の観客が自分の映画の世界に深く浸っている姿を見て非常に驚き感激したとインタビューで答えていた。そして当時自分が暮らしていたソ連ではこのような芸術は広く理解されなかったと言っており、グルジアは古い文化を持つ国であり、ピロスマニはグルジアの古い伝統体験していると言っている。その古いグルジアを愛しているからこそ映画ピロスマニを作ったそうだ。日本も伝統を大切にする国であり、時代が移ってもその点は変わっていないものと信じていると…。今回日本でピロスマニが再び上映されるのは、このような古い伝統を理解して愛する人々が日本に変わらずたくさんいるからなんでしょう。ピロスマニの再上映の成功を心から祈っていると2015年に語っていた事を思い出す(正式な言葉かはわからないが、まぁそんなにニュアンスで話していた)。

グルジアと言えば12世紀から13世紀にかけて最盛期を迎えて南コーカサスの大部分を支配してきたのは有名な話で、グルジア文学の金字塔であるショタ・ルスタヴェリの長編叙事詩"豹皮の騎士"が書かれたのは確かこの頃だったのではないだろうか。残念なことに一時期を除けば、グルジアの歴史は周辺の大国による苦い思いの幕開けとも言える…ユーラシア大陸の東西南北を結交通の要衝であるコーカサス地方は、古くはローマ帝国に始まりペルシャ、アラブ、モンゴル、トルコ、ロシアなどの角逐の場となってきたの授業とかで習った記憶があると思う。19世紀初めにロシア帝国が来る事を確定したため、ピロスマニが生まれて1862年には、グルジアはロシアの支配下にあった。ロシアによる支配は、ロシア革命期の1918年5月にグルジアが独立を宣言するまで続いた(グルジアはその後再びソ連に編入されることになる)。ピロスマニがいつ死去したのかは必ずしもはっきりしていないものの、独立を見る事はなく、グルジアが独立を宣言する直前になくなったと推定されているみたいだ。前置きはこの辺にして物語を説明したいと思う。



さて、物語は19世紀後半から20世紀初頭、ロシア帝国下のグルジア(ジョージア)のチフリス(現在の首都トビリシ)。幼くして両親を亡くしたピロスマニは、長年世話になった一家の娘に恋文を送ったために騒ぎとなり、その家族の元を離れることになる。しばらく鉄道員として全国を旅した後、友人ディミトリと乳製品の店を開いた。店は繁盛したが、ピロスマニは昼日中に乾し草を広げて横になったりして、仕事に身を入れなかった。故郷の姉夫婦が縁談をまとめようとするが、彼の金が目当てだということが結婚式の最中にわかり、ピロスマニは式を抜け出して姉と中違いをする。またディミトリとも関係が悪化、ピロスマニは店の商品を貧しい人々に分け与えると店を閉めた。まもなくピロスマニのチフリスを転々とする日々が始まる。

画材を小脇に抱えて酒場を回り、その日の糧や酒と引き換えに、店の看板や壁に飾る絵を描くのだった。彼はいつも1人で酒を飲み、声をかけられても仲間に加わらない。人々は孤独で誇り高い彼を伯爵と揶揄もするが、ニカラと愛称で呼んでは何かと世話をするのだった。ある日、ピロスマニは酒場でフランスから来た女優マルガリータと出会う。しかし彼女への報われない愛は、ピロスマニを一層孤独な生活で追い込んで行った。さらに第一次世界大戦が始まり、ロシア革命前夜でもある激動の時代を迎え、彼は貧しく厳しい日々を送るようになり、一杯の酒を得るために酒場を渡り歩くのだった。ある日、彼の絵がこの地を訪れた若い芸術家の目に留まり、一躍、中央の画壇に注目されるようになる。

グルジア芸術家協会の会合にも招待されて支援を受ける。ピロスマニはそれに応えて、街の真ん中に大きな木の家を建てて、芸術を語り合いましょうとスピーチするのだった。しかしその後まもなく、新聞に彼を揶揄した戯画が掲載され、知人たちからも冷ややかに見られるようになり、彼の心は深く傷ついた。ある日、ラド(・グディアシュヴィリ)と名乗る画家が仲間と集めた援助金を届けにピロスマニを尋ねた。窮乏し、納戸のように狭く暗い場所に住んでいたピロスマニは、ラドたちの気持ちに心打たれる。しかし彼の絵はもはや人々に省みられる事はなかった。復活祭に向けて絵を頼まれる。彼は部屋に閉じ込められて大作"カヘティ叙事詩"を描きあげた。その後、家で病のために動けなくなっていたピロスマニを、馬車で乗りつけた男がどこかへと連れて行く…とがっつり説明するとこんな感じで、物語を簡単におさらいすると、映画ではピロスマニが亡くなるまでの約40年がほぼ時系列に点描されている。大まかに言うと、まず長く世話になった家を離れる。その次に友人と店を営み、破綻する。そして故郷の姉夫婦と仲違いする。そして絵を描きながら居酒屋を転々とする。その次に女優マルガリータとの出会い…といった流れで、晩年の彼の絵が若い芸術家に見出され、評価されるまでのエピソードが断続的に挿入されている。

この作品を監督したシェンゲラーヤは、およそ30歳だったらしい。こんなに若いのに、ほとんどセリフのない作品を撮り、ほぼクローズアップがなく、遠距離から撮る撮影方法で、素朴な人柄とその人間性が醸し出す独特な雰囲気をうまく映し出していてさすがだなと思った。それに大活躍したのはやはり主演の素人俳優(美術担当の人)もそうだ。グルジア(ジョージア)の独学の天才画家ニコ・ピロスマニ(1862年から1918年)の半生を描いた作品である。先ほども言ったが、近年ではピロスマニは貧しい絵描きと女優の悲しい恋を歌った百万本のバラのモデルとして知られている。やはり自分の生まれ年(1991年)に独立、同年にソ連連邦が解体した後に民族主義が反対する勢力と激しい内戦を起こした、グルジアの歴史や文化の独自性が好きで、結構グルジアの事は調べてきたか、この作品はそういった歴史を丹念に描写していて(91年以降の歴史ではなく)良い。

この作品は1969年に製作されたもので、ピロスマニの絵に似て静謐で美しく、国際的にも高い評価受けて、78年の日本初公開時にも多くの観客を魅了し、その感動は今でも語られることが多い。その当時はロシア語吹き替え版のプリント上映だったが、この度はグルジア語のオリジナル版による待望の再上映で、高画質のBDで見れた事は心の底から幸せである。これは残念ながらレンタルなど配信もないので、購入するしかリーズナブルに見えないと思うが、買う価値はある。ここで少しばかりピロスマニについて話したいと思う。彼の本名はニコロズ・ピロスマナシュヴィリであり、19世紀末から20世紀初頭にかけて、カフカス(コーカサス)山脈の南にある国グルジアで、パンや酒と引き換えに店に飾る絵や看板を描き続け、貧しく孤独のうちに亡くなったとされている。

放浪の画家わ孤高の画家と呼ばれ、絵は人物、動物、暮らし、風景などをテーマに、グルジアの風土に生まれた世界を素朴な筆到で描いたもので、その数は1000点から2000点と言われている。死後に高く評価され、現在はグルジア人の魂を象徴とする存在として人々に愛され、収集された200点余りが国立美術館等で大切に保存、展示されているようだ。世界中で展示会が開かれているが、日本でも1986年に大々的な展示会が開かれて2008年の"青春のロシアアバンギャルド"展でも作品が展示されて話題となったそうだ(私も行きたかった)。これらを監督したのが、1937年生まれのグルジアを代表する映画作家、ゲオルギー・シェンゲラーヤ(ギオルギ・ジェンガラヤと表記される場合もある)監督だ。実際に彼の作品は本冊しか見たことがないのだが、日本でも公開された「若き作曲家の旅」(1984)「ハレバとゴーギ」(1987)と言う映画があるようで、ぜひとも見てみたいものだ。調べてないけど多分メディア化自体されてないと思う。

どうやら父親も監督で母親も大女優の映画一家(父親は1943年の撮影中に死去しており、母親も飛行機事故で亡くしている)に育ったそうで、ソ連邦時代にモスクワ映画大学でアレクサンドル・ドヴジェンコ監督の「大地」(こちらは1930年の映画で私もDVDを購入してみたが傑作)に師事したみたい。それと兄はグルジア映画人同名の代表を務めた監督らしい。ちなみに本作のピロスマニを演じた人は、この作品の美術を担当した人物だそうだ。77年に亡くなっている。どうやら監督に抜擢され、ナイーブなピロスマニの内面を見事に演じ、絶賛されたそうだ。確か2015年に個人所有のピロスマニ作品として最も有名な"夜のアルセナル山山"がロンドンで開かれたクリスティーズのオークションに出品されたことも話題になっており、ロシアの詩人マヤコフスキーの恋人が購入し、その義弟であってフランスの詩人アラゴンに贈ったと言う話も有名だ。

1982年にアラゴンが死去して後、何度か国際的なオークションに出品されてきていて、サザビーズでは過去280万ドルで落札されていたようだ。ピロスマニの作品が外国でオークションにかけられるとの知らせがグルジアに伝わるとグルジア国内では資金を集めて作品を国に取り戻そうと言う声がかなり上がったらしい。残念ながらいくら個人の寄付を募ったところで簡単に集められる金額ではないと言うことで、政府や企業に嘆願が寄せられたが、あいにくどこもそんな余裕はなかったそうだ。万事休すと思われたその時、なんとグルジアの大富豪であるイヴァニシヴィリ前首相が150万ドルで絵を落札し、国立美術館に寄贈したそうだ。長く国外にあった国民的画家の作品の帰国にグルジア中ぎ大いに沸いたそうで、作品をひと目見ようと早速たくさんの人々が国立美術館に押し寄せたらしく、グルジアの人々にとってピロスマニはやはり特別な存在であるなと感じたのだ。そういえば、この国の紙幣(最も額の小さい1リラで、彼の肖像画が描かれている)もピロスマニであるし、トビリシ駅近くにある通りもピロスマニ通りと言うらしい。確か、硬貨にも彼が書いたとされている雄鹿になっていたと思う。

実際にトビリシの街を歩けば、ピロスマニやニカラなどと書かれたレストランの看板があちこちにあるらしく、グルジア人の人々はまるで気のけない幼なじみに呼びかけるように、ピロスマニのことをしばしばニカラと呼ぶそうだ。この映画を見てもわかるように、ピロスマニが描いたのは、グルジアの人々の日常の暮らしそのものであり、葡萄を収穫する農夫、羊の群れを連れた羊飼い、酒を乾杯する男たち。それらは今も変わらない、グルジアの風俗を象徴する風景である。ピロスマニ自信もまたその風景のー部であったと言われており、素朴な筆到にもグルジアの民衆の力強い文化が表されている。ピロスマニはまさにグルジアの国民が画家と呼ばれるにふさわしいとのこと。彼が亡くなってやがて100年が過ぎようとしていると言うのに、どこかの農家でこれまで知られなかった作品が発見されたとか、墓が見つかったかもしれないとか、グルジアのメディアは事あるごとにピロスマニを話題にするそうだ。

ピロスマニは今もグルジアの人々の心をとらえて離さないと在日ジョージア日本国大使館専門調査員が話してる。ちなみにグルジアは世界で2番目にキリスト教を国教に定めた国であり、ピロスマニも信仰深かったことが知られているようだ。映画では、ピロスマニの半生にイエス・キリストの受難劇が見え隠れするように重ねられていて、監督の彼に対する敬意の思いが感じ取れると絶賛されていたそうだ。黒いバックに単独で挿入される絵は、小説で言えば章の冒頭のようにそのパートの内容を象徴していて、順番にあげると、キリン、白牛、家族のピクニック、ライオン、復活祭の羊、昇天の順番である。そして、彼の描いた作品は、彼の死後、第三者がつけたものがほとんどであり、中には不適切と思われるものもあるそうだ。



いゃ〜、いつ見ても傑作。彼が描き出す動物の絵とかは、背景が暗くて、照明をワンポイントに当てて映画では映るため非常に魅力的に感じる。闇の中で内なる光を発しているような演出はたまらない。特に歩く牝鹿、白牛など。しかし黒水牛の絵の場合は動物が黒い部分なので、背景は白くなっている。その異なった色の牛の絵が外の白い壁に飾られる場面など印象的で、左右シンメトリーな感じもまた監督の凝った演出だろう。特に小津安二郎や後の候孝賢の作品にある、といってもロシアのタルコフスキーもそうだが、奥行きのあるフレーム作りも印象的だ。カメラの角度によってそれが成し遂げられている。あの乳製品のお店にやってくるおばあちゃんのシークエンスなどまさにそうだ。やはり、1920年代の前衛的なグルジア映画の芸術性、1960年代から70年代にかけて活躍した映画監督たちが築き上げた本作を含む20世紀後半のグルジア映画は、ソ連の思想検閲に対する抵抗の中で作られた事は100も承知で、これらの映画に特徴的なのは、詩的、比喩的な語り、寓話的な言語、グルジア的性質を体験するおかしな登場人物であるとされているように、この作品もその1つだろう。

グルジア映画は反ソ連的ではなかったが、かといってソ連的でもなかったと言われており、体制に抗うのではなく、あたかも体制を投影しなかったのであるとされている。しかしながら、実際には、その壮絶な戦いの中で制作されたそれらの素晴らしい作品は芸術性や自由さで観客を魅了してきている事はこの映画を見てもわかる。なので他監督の作品「汽車はふたたび故郷へ」「カラバフ逍遥」なども非常に見たくなった。まだこの監督の他の作品を見れていない私は、そこまでこの監督に対して語る事ができない…グルジアの文化や歴史を語れたとしても…やはり映画は対比して語りたいと言う自分のポリシーがあるため、まだまだ不勉強である。冒頭の虫の鳴き声とともに、ナレーションが始まるファースト・ショットが部屋の中なのだが、語り部とともにゆっくりとカメラが前進していく演出。

このフレームのこだわったインテリの配置、観葉植物、不意に入り込む絵画、ベッドに眠る少女のカット、河を越えた荒地の引きの風景の圧倒的美しさと迫力、大草原と馬車、フレームの中にフレームを作る演出、二重構造、扉、ホワイトクロスに牛の絵を貼る場面、音楽がない中静かに会話が進むこの静謐さ…凄い。魅入るぜ。閑散とした乾いた大地の風景のロングショットはまるで別の宇宙を見ているかのようだ。あの青を基調にしたレストランのショットとかもすご過ぎる(バレーが披露されているシーン)。"女優マルガリータ"のパネルとかが作られたり、清掃人の制服の背中に"庭番"の絵がプリントされたり、トビリシにあるピロスマニの像など町中に彼関連のものが結構あるようだ。皆も存じ上げているように、91年にグルジアが独立して、そこから92年にかけての政変、さらにそれに続く内戦やアブハジア紛争により、国を取り返しのつかないまでに陥ってしまった。

そういった中、経済的には破綻して、精神的にも追い詰められた国で、イデオロギーとの戦いは市場経済の生き残りの戦いにとって変わられてしまう。しかしながらそういった混乱が描かれた90年代のグルジア映画の中でも色々と特徴はあったと思われる。そして21世紀にはグルジアに希望が芽生えた。それが2000年にグルジア国会で採択されたグルジア映画国家支援法をもとに、2001年に国立映画センターが設立され、映画スタジオの復興に向けたプロジェクトが始まったことである。グルジア映画は徐々に正常な環境を取り戻したとグルジア映画の新たな動きを語るマリナ・ケレセリゼが言っていた。ここでグルジア(ジョージア)についての話をしたいと思う(前にもした覚えがあるのだが)。グルジアは黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス地方に位置し、ロシア連邦、アゼルバイジャン、アルメニア、トルコと国境を接する。首都はトビリシ。

1991年(私の生まれた年)にソビエト連邦から独立して、北海道よりも少し小さい国道に、約400万人が暮らしている。人口の8割ほどがグルジア人で、その他アゼルバイジャン人、アルメニア人、ロシア人、オセット人、ギリシア人、クルド人など言語や宗教の異なる多くの民族がいる。公用語はグルジア語。ちなみに、グルジア語では国名をサカルトヴェロと言うらしい。カルトヴェリ=グルジア人の土地と言うほどの意味だそうだ。北部には大コーカサス山脈の5000メートル級の山々が連なり、西部の黒海沿岸は亜熱帯に近い多湿な気候で蜜柑や茶などが栽培されたり、内陸の東部は乾燥した大陸生の気候で、南東部には砂漠も見られる。小さな国土にもかかわらず多様な自然に富んでいる事はグルジアの大きな特徴である。

そういえばセルゲイ・パラジャーノフの中編映画に、「ピロスマニのアラベスク」と言う映画もあったなあ。確か1985年の作品。それにしてもピロスマニの作品は、正面生、対称性、内在する精神世界と民族性などグルジアの風習や風物、歴史などがあって非常に良い。なんだろう、自分はグルジア人じゃないが、その国に生きる人々にとっては非常に身近なものに感じるだろう。1972年にはピロスマニがキャンバスに向かう姿を銅版画に描いているピカソの絵も話題だろう。ここで余談だが、グルジアを語るにワインは欠かせないだろう。ピロスマニの故郷と言われるカヘティ地方には一面の葡萄畑が広がり、ユネスコの無形文化遺産にも登録されていたはずだ。確か葡萄畑のある地域にピロスマニは引っ越したか、生まれたんじゃなかったか…記憶が曖昧。長々とレビューしたが、この作品は是非多くの日本人に見て欲しい。グルジア映画の最高傑作の1つである。
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