体調がすこぶる悪い中、よりにもよって「オウム真理教事件」のことを熱心に調べ始めている。
そのため新作映画の鑑賞であったり旧作品の視聴が疎かになっているのだが、止まらなくなっている。
1978年生まれの僕は、まさに「オウム事件」の真っ只中に生きていた。
マスコミに取り上げられていた当初から、「坂本弁護士一家殺害事件」「松本サリン事件」「地下鉄サリン事件」そして、その後の逮捕など、思春期から成人までの間に関連のニュースをずっと観ていた記憶がある。
とはいえ、その報道が加熱して常にテレビで話題になっている姿をずっと目の当たりにしてどこか感心が急速に薄れてしまった事件でもある。
本作は「地下鉄サリン事件」などから程なく、教祖である麻原彰晃など幹部たちも含めて逮捕された直後から始まる。
中心人物は教団の広報副部長たる荒木浩。
若干28歳で、主要人物が根こそぎいなくなった組織のスポークスマンとして、市民社会からの憎悪を一身に受けながら残務処理を行う様が描かれている。
本作に限らず、僕が興味を持つのは、何か大きな話題になった事件などの「事後」のドラマだ。
世の中の関心が去った後でも、当たり前だが現実も、人生も続く。その当事者たちというのはそれぞれの立場にいて、カメラが向いていないところにも、色んなドラマがあって、本作はそこに光が当てられている。
少なくとも本作で描かれている信者たちは「反社会的な組織」に属してはいても、直接的には法を犯していない。
一方で、市民社会側の目線で見れば、そんなことなど知る由もなければ、その必要もないほど、彼らに対して恐怖と憎悪が募っている。そしてそれは仕方のないことだ。
その「対立」が否応なく画面には映し出される。
明確な「犯罪者」ではない荒木が、それでも矢面に立たされ苦悩し葛藤する。
しかも、苦悩や葛藤すら、煩悩として否定していた教団の教義を抱えながら常に人間の持つ「業」が炙り出されてしまう点が面白い。
「俗世」を解脱しようと修行に励めば励むほど、現実の世界で最も苦しい立場で悩まなければいけない皮肉。
カメラが視点を変えれば、その「市民社会」の側はお構いなしに信者たちを糾弾するし、コミュニティから排除しようとする様もなかなかグロテスクに捉え、信者たちが一見可哀想にも見えるし、市民側の不寛容さも露呈する。
一方で、治安保護の為の組織である「公安」などの警察権力は生々しく「転び公妨」まで行使する。それはそれでアンフェアな「暴力」であるし、その弁護のために本作の映像を提供することの葛藤も刻まれてきて、言葉を選ぶが大変面白い。
その「市民社会側の正義と秩序」の問題は特に2024年である「現在」だと余計にそうだ。
野暮ったい難点を言えば、テロップやナレーションを省いた構成、編集は演出意図として理解できないわけではないが、正直出来事がわかりづらい。
また寓意として挿入されている感のある朴保などの楽曲が、僕の苦手な「左翼の貧しさ」を感じる垢抜けなさを感じてもったいなかった。