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かくも長き不在のtsuraのレビュー・感想・評価

かくも長き不在(1960年製作の映画)
4.6
学生時代からずっと見たかった作品。

私は最近特になのだが、兼ねてより見たいと思い募る作品はなるべく情報を遮断して鑑賞に臨むことにしている。

それは純粋に作品を楽しみたい、堪能したいというのもあるのだがそれ以上に他の意見に扇動されたくない、というものだ。

作品によってはある程度情報を入れる事も大事だが現代は情報過多。
自分でそれらの取捨選択が必要となっている、というわけで本作もそれに倣い最初に知り得た情報だけを頼りに、抱き続けた興味だけで遂に今回の鑑賞と相成った。

結果から言うとその対応は私とって行って良かった鑑賞方法だった。

見れた事による感慨以上にこの作品の深さに複雑な感情と痛みを含んだ感動に打ちひしがれている。

アンリ・コルピ監督

マルグリット・デュカス脚本

アリダ・ヴァリ主演

M・デュカス脚本というだけでも映画ファンは必見だし、アリダ・ヴァリは「第三の男」にも出演していた女優。

製作に携わった面々で見るも良しなのだが、この作品の底知れぬ"深さ"を堪能して欲しい。


パリでカフェを営むテレーズの前にある日、浮浪者がふらりと前の道路を横切る。

テレーズは愕然とする。

何故ならその浮浪者は何を隠そう16年前より行方知らずとなっていた夫アルベールと瓜二つだったからだ。

そうしてテレーズの哀しき過去が見えてくる…

とまぁストーリーはシンプル。

じゃ何故、この作品に深い感動を味わったのか。
そこで私なりに感動に繋がったいくつかのポイントを通して作品に触れてみた感想を書こうと思う。

1.重なった悲劇をストーリーだけで魅せる。

一つ目の悲劇は、これが第二次世界大戦が原因であること。
(終盤、ナチスによる凄惨且つ忌わしい記憶がフラッシュバックし手を挙げてしまうシーンだけで戦争という傷の深さを描写している)

2つ目の悲劇は、もう主役2人は過去に戻れないということ。

3つ目の悲劇は、記憶があるが故の悲しみともう一方では記憶が無いと言う事の悲しみ(アルベールからすればある種の幸せになってしまってることが最大の悲劇)


2.アルベールの描き方

アルベールは実に象徴主義的な立ち位置でテレーズの前に現れ"戦争の悲劇"を代弁している。
しかしながら徐々に明らかになっていく真実に向かってテレーズは現実的な迄に過去と決別していた筈なのにアルベールとの邂逅によりまるでロマン主義の様な夢の瞬きに触れてしまう。

しかし真実とはまさに残酷そのもので、過去の闇に掻き消されてしまい悲しみはいっそう救われない悲劇に映った。

3.「セビリアの理髪師」が憎い。

アルベールはオープニングから印象的な鼻歌を歌う。ロッシーニ「セビリアの理髪師」

この有名なオペラの簡単なあらすじはこうだ。

主人公となる伯爵は、ロジーナという身分違いの女性に恋をしてしまう。
自らは身分を偽った姿で彼女に近づき恋が実るようにとアプローチを掛けるなかでバルトロなる人物がその伯爵の行く手をあの手この手で邪魔してくる。結果的にはフィガロの助けを借りて、無事ロジーナとの恋を実らせる…と言った感じだ。(超ざっくり)まさにこのオペラはアルベールやテレーズにとっての繋がりを示す糸口でもあり、鍵でもあったと同時にここで歌われる曲こそが2人の空気感を表しており尚且つ、2人には叶わない愛の果てを炙り出しており、ただただ哀切の募った作品であったと思う。


この作品はデュカス脚本だけあってその悲哀の炙り方はまさに「二十四時間の情事」と被るし、ストーリーの展開はそれに通ずるものがあった。

どちらの作品にしても戦争を直接的に描かずして戦争の爪痕がくっきりと浮かびあがる凄みはあるけれど、ストーリーは非常に難解な部類に入るだろう作品の筈だ。

確かに少々抽象的であったりするけれどこの作品の重みは私の心にはしっかりと届いた。

間違いなく名作。

ぜひ手に取って、この作品に触れて欲しい。
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