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ペイルライダーのmasayaanのレビュー・感想・評価

ペイルライダー(1985年製作の映画)
4.2
フレッド・ジンネマンの『真昼の決闘』(52)を厳しく鍛えなおしたようなカルト・ウェスタン『荒野のストレンジャー』(72)と同じく、この『ペイルライダー』(85)についても、傑作とは言い難い過去の西部劇を下敷きにしているように思える。本作の基礎となっているのは、様々な批評家がすでに指摘しウィキペディアにも書いてあるように、ジョージ・スティーブンスの『シェーン』(53)だろう。

うら寂しい集落に暮らす善良な人々、そこに流れ着く一度は銃を捨て、異なる人生の生きようとする流れ者(本作ではなんと牧師!)、そして一体の集落を牛耳ろうとする強欲な資産家という構図、あるいは、匿ってくれる一家の女と流れ者の男が不貞の予感を漂わせながら視線を交換するあたりまで、『ペイルライダー』は物語の見かけ上、『シェーン』とそっくりだとひとまず確認することができる。

流れ者はしかし、「この男が集落の危機を救ってくれるのだろう」という町民と観客のきわめて「西部劇的な」期待を簡単には引き受けない。むしろ、深く語られることのない男の過去が、「この男は本当は集落を滅ぼしてしまうのではないか」というサスペンスとなり、『荒野のストレンジャー』と同じように、男の怪奇的な射撃の精度が、男の過去を尋ねようとする町民たちの口をますます固く閉ざしてしまうことでそれは助長される。

そして、これが映画の肝でもあるのだが、『シェーン』におけるあの、不朽の名場面と言われながらも個人的には大したシーンには思われないラストの山びこを生み出した男の子は、『ペイルライダー』においては、母親と流れ者の男を奪い合う恋敵としての女の子に上書きされ、ストーリーに好い加減の亀裂を生んでいる。シドニー・ペニーという、基本的にはテレビ・ドラマ畑の女優らしいのだが、彼女の大人の鑑賞に堪える演技と存在感は良かった。

映画全体としてはしかし、流れ者の男が背負った「傷跡」が、集落の問題とは直接にはリンクしないため、町を地獄色に染め上げ、悪党どもの「歓迎パーティー」を開いた『荒野のストレンジャー』の異様さ、映画的なぶっ飛び度と比べると、いささか落ちるかもしれない。とは言え、本作と『シェーン』をセットで見ることで、ポスト西部劇という「西部劇が終わった後の西部劇」が、単なるジャンル映画の挽歌ではなかったことはその目で確認すべきだろう。
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