カラン

日本のいちばん長い日のカランのレビュー・感想・評価

日本のいちばん長い日(1967年製作の映画)
4.5
1945年の7月26日にポツダム宣言を受電したが、空襲を受けて本土は焼野原であり、既に沖縄決戦も敗れているにもかかわらず、日本は宣言を黙殺する。この黙殺は保留という意味のようであったが、拒否と受け取られたようであり、広島、長崎と原爆が投下される。8/8には不可侵の条約を結んでいたソ連も満州に侵攻した。この間、上層部の会議は続き、天皇に伺いを立てるも、受諾の条件を巡って議論は終わらない。ようやく8/14にポツダム宣言を受託し、国民に敗戦を知らせる玉音放送を天皇がマイクの前で話し、それを録音したものを放送すると決定する。そこから原稿を作り、その清書をして、スタジオ録音して、本土決戦を訴えるファナティックな人物たちが録音盤を奪いに襲撃などなどが相次ぎ、本当に本当に長い1日が終わる8/15の正午に玉音が放送される。。。




☆展開
橋本忍が脚本と製作を兼ね、お遍路のクロスカットで繋ぐ長大なクライマックスは一部撮影班を率いて、編集まで手を出した『砂の器』(1974)はクライマックスまでは、進展は何もない。同様に本作でも橋本忍は、映画に遅滞と怒涛の急展開を導入する。後半、早く夜が明けて、玉音放送が行われてくれと血みどろの展開のなか祈っていると、大気を蒸発させんと燃え盛る日の出のショット。

☆キューブリック
オープニングは空襲の爆雷と地球儀のようなセットがでる。ポツダム宣言が字幕で提示され、会議となるのだが、大きな丸いテーブルが置かれている。一連の流れはキューブリックの『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』(1964)を想起させる。岡本喜八の映画をキューブリックにたとえたら怒られるかもしれないが、キューブリックのはコメディで誇張しているが、実質的には変わらない。キューブリックも岡本喜八も、政治的議論の本質を立派に伝えている。

☆美化
戦争責任を負うべき人たちを美化しているという批判は、否定できない部分がいくらかあるかもしれない。ただし、ポツダム宣言の受託という局面にあたって、国民のために本土決戦をやめて終戦を選ぶという話になったのは事実なのだろう。岡本喜八は20歳の頃に招集を受けた。終戦から20年以上経っていた。それでも、多くの苦労があっただろう。

国民のために戦争を終わらせようと言っている人間がいて、本土決戦で最後の一兵まで戦うのか、切腹するのか、のどちかだと主張する人間たちが描かれる。多数のキャストが参加しているが、人間関係は全てこの終戦を主張する側と、本土決戦を主張する側かに、温度感や方法論で多層化はしているが、2分されて対比を形成する。

本作の脚本は橋本忍であり、『切腹』(1962)に継ぐ、死の美学が描かれる。本作で切腹死するのは、2人だろうか。切腹死を仄めかす者やピストル自殺をした者もいた。一部始終を克明に描写し、極めて生々しい血飛沫と噴き出す血の音までつけたのは、三船敏郎演じる陸軍大臣による自害の刃である。小刀による割腹に続いて、介錯させてほしいという声を静止して、自ら頸動脈に刃を滑らせて障子や遺書に血を撒き散らすこのシーンはあまり壮絶で陰惨で、畏怖を覚える。自害の前には三船敏郎は宮城事件の片棒を担いだ中佐をビンタしていた。これまた凄まじい張り方で、中佐を演じた高橋悦史も呆然としていたほどだ。

こうした描写は、虐めとしての『切腹』の切腹よりも、強度が高く審美的な切腹である。この映画の自害は侍的な倫理観に根差し、ある種のスペクタクルに転じる美学であることがはっきりと分かる。『切腹』でも竹光で腹を抉るのを皆が見ており、本作でも2人が立ち会っている。7/15の宮城事件の傍らで三船演じる陸軍大臣の自刃と、そこに立会人が居たのも史実であるらしい。したがって、この映画に対する批判として想定される戦争責任のある者たちの美化というのが切腹の話であるならば、それは岡本喜八が虚構を作ったということを示すものではない。数年後にスペクタクル的に自殺する三島由紀夫のことを思い返せば、切腹というのは罪科を見せ物としての審美的な水準にすり替えるものであるし、それは岡本喜八が考えだしたことではない。

☆天本英世さん
宮城事件を共謀したのか、予備役の隊長が首相官邸や私邸に弾丸を撃ちまくる。この隊長は下の歯が朽ちており、鬼のような形相でわめき散らす。凄まじい圧力のゾンビっぷりで、誰なんだと調べたら、天本さん。あの丸帽をのせた柔和なお爺さんの若い頃なのであった。
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