【意味不明の邦題だけれど 見応えがあった】
(1938年・米・103分・モノクロ)
監督:ウィリアム・ワイラー
原題:Jezebel
原作:オーウェン・デイヴィス・Sr『Jezebel』
※以下、かなり「あらすじ」を書いています。
ベティ・デイヴィスの持つ「毒気」にハマり、最近では彼女の出演作を追いかけている。Wikipediaで彼女のことを調べていたら、―『黒蘭の女』の予告編より―と説明書きのあるモノクロ写真があり、その美しさに魅せられてしまった。
私の場合、初ベティ・デイヴィスが『何がジェーンに起こったか?』だったので、既に彼女の悪女路線が絶頂期を迎えており、本作のような美しい主人公役に接すると、とても新鮮に映るのだ。(笑)
本作で彼女が演じるのはジュリーという若い娘で、悪女というよりは「我儘」「勝気」「反抗的」という言葉の方が合っていると思う。ジュリーのこのような性格は「サザン・ベル」と呼ばれ、気高い南部美人を指し、特にアメリカ南部の文化や伝統を象徴するキャラクターなのだそうだ。そのような理由(ワケ)で時代背景が同じ『風と共に去りぬ』と印象がダブるのかも知れない。
ジュリーにはプレストン(ヘンリー・フォンダ)という婚約者があり、物語はジュリーとプレストンの愛憎劇となっている。
パーティーに着ていくドレスを一緒に選ぶ約束をしていたが、プレストンは銀行の仕事を優先し、ジュリーは彼を困らせるように真っ赤なドレスを選んだ。結婚前の女性のドレスは「白」が常識だという周囲の忠告も無視し、プレストンが着替えるように言うのも聞かなかった。ジュリーにしてみればほんの悪戯心だったようだが、会場での紳士淑女たちの反応は予想以上に冷たく、皆がダンスを止めてジュリーとプレストンを遠巻きに見ているのだった。流石のジュリーも踊るのをやめようとしたが、今度はプレストンが許さない。ジュリーは顰蹙の視線を浴びつつ踊った。そして、その夜にジュリーを家まで送り届けた後、彼はジュリーの前には二度と現れず北部に行ってしまう。
その一年後に帰って来た時、彼はエミイ(マーガレット・リンゼイ)という妻を連れていたのだった。
ざっと本作の顛末のきっかけ部分を書いたつもりだけれど、ジュリーの失恋と嫉妬、黄熱病の流行や当時のピストルによる決闘という習慣、恋の鞘当てなどを絡めて、ドロドロした愛憎劇が進んで行く。
プレストンの焼きもちを誘うためにバック(ジョージ・ブレント)を利用したジュリーの策略はすべて裏目に出て、不幸な結果を招いてしまう。こうなる前にジュリーの後見人の叔父が言った言葉は「この原因はすべて君にあることを忘れるな。」だった。そして叔母のベル(フェイ・ベインタ―)は、こう言った。「女性が原因の喧嘩は誰も止められない。」
ベルは後にこうも言った。「ジェゼベルのことを考えていたの。聖書に出てくる毒婦よ。」
ジュリーの言動を見ていると(正直な気持ち)イラっとする。ひとの気持ちを試したり唆してみたり、自分の思惑と違う方向に物事が進みそうになると慌てて説得しようとするけれど、「時、すでに遅し」なのだ。
おまけにプレストンまでもが黄熱病に倒れ、彼の看病や隔離で、今度はジュリーとエミイとが対峙することになる。この瀬戸際に来て、ジュリーはエミイに敗北を認めるのであるが、あのラストはドラマチックではあるけれど、私には納得がいかない部分だった。叶わぬ恋を認めながらも、病人たちと共に隔離の島送りに付き添うジュリーの毅然たる態度は、ベティ・デイヴィスの演技力の見せどころ(魅せどころ)なのだろう。私には、自らの手で自身の運命を台無しにした愚かな女性としか思えなかったけれど、それさえもデイヴィスの表現力の巧みさなのかも。
本作で、ベティ・デイヴィスはアカデミー主演女優賞を受賞。フェイ・ベインダーが助演女優賞を受賞している。2009年にはアメリカ国立フィルム登録簿に登録された。
私が魅了されたデイヴィスの美しさは、逆光気味のモノクロの陰影が深いシーンにおいて最も発揮されていた。身長185cmのヘンリー・フォンダに対して160cmと小柄なデイヴィスが向き合う時でも、彼女の存在感は負けてはいなかった。