【大審問官編について】
「熱があればキツい」というのは正しい。しかし、「熱がなければキツくない」というのは正しくない。これが「裏は必ずしも真ならず」である。
「P⇒Q(PならばQ)」が成立するからといって「¬P⇒¬Q(PでないならばQでない)」が成立しない例というのは、いくらでも存在する。「もし東京に住んでいるならば、日本に住んでいる」が成立するからといって、「もし東京に住んでいなければ、日本に住んでいない」は成立しない。つまり「裏は必ずしも真ならず」なのである。これは、「逆は必ずしも真ならず」の話ではない。それは「P⇒Q (PならばQ)」が成立するからといって「Q⇒P (QならばP)」が成立しないという話である。例えば、「もし東京に住んでいるならば、日本に住んでいる」が成立するからといって、「もし日本に住んでいるならば、東京に住んでいる」は成立しないというような話が「逆は必ずしも真ならず」である。そしてある命題につき、その逆とその裏の関係は対偶である。
ロシアの小説家フョードル・ドストエフスキー(1821-1881)による『カラマーゾフの兄弟』(1880)という作品の第2部第5篇「プロとコントラ」のうち「大審問官」という箇所だけでも読みなさいと言う人は多い。
この箇所は、カラマーゾフ家の三兄弟のうち、次男のイワンが三男のアリョーシャに自分の考えた物語を聞かせている場面である。
イワンの語る物語は 16 世紀のスペインの話である。16世紀のスペインではキリスト教の異端審問によって多くの人が異端とみなされ火刑に処せられていた。この時代にイエス・キリストが再び降臨したらどうなるかをイワンは物語に仕立てて弟に聞かせているわけである。
イワンの語る物語の中で、イエス・キリストは人間の姿で人々の間に姿を現す。人々はなぜか「彼はイエス・キリストだ」ということに気づくが半信半疑で「もしあなたなら、盲目の目を治してください」とか「子供を生き返らせてください」などと叫ぶ。そこに大審問官が現れる。大審問官は 90 歳くらいの老人なのだ。
ここで思い出すべきは、聖書の中の「福音書」には、「石ころをパンに変えてみろ」と悪魔がイエスを試しにくる場面が既にあるということである。
イエスは、人々のために石ころをパンに変える奇跡をこれまでに何度も起こしてきているわけだが、もし悪魔の誘惑にのれば、イエスは人々のためにではなく「自分が神の子である」ことを証明するために石ころをパンに変えることになる。そんなことをしてしまったらイエスは「自分が神の子である」ことを疑う立場を考慮することになる。それはつまり、自分が神の子であることは疑いうることだと認めることである。「証明」は、「偽りではないか」という「疑い」に対してなされる行為であり、疑いの余地がない絶対的な信頼がある場合に「証明」はそもそも不要なはずだ。だからイエスは、自分が神の子であると信じているならば、証明の必要はないとして悪魔を退けなければならなかった。
この小説の中で、イワンは「石ころをパンに変えろ。そうすれば人々はお前についてくる」というセリフを悪魔ではなく物語の中の大審問官に言わせている。イエスはイワンの語る物語の中でもやはり石をパンには変えなかった。人々が「奇跡」ゆえに信仰するのではなく、自らの「自由な意志」で信仰することを望んだためである。
ところで、「イエスが奇跡を起こすならば人々がついてくる」ことは間違いないが、だからと言って、「イエスが奇跡を起こさないならば人々がイエスについてこない」とは限らない。「裏は必ずしも真ならず」なのである。
つまり、人々がイエスについてこない理由は、「イエスが奇跡を起こそうとしないから」以外にも色々と考えられる(例えば、イエスについて行けば大審問官に殺されるかもしれないということを人々が恐れているから、とか、イエスが人々から自由意志を引き出そうとしたことを人々が思い出して「ついていく」ことをせずともイエスの教えは実践できると考えているから、とかである)。しかし、「人々がイエスについてこないのは、イエスが奇跡を起こそうとしなかったからだ」と大審問官は仮説形成をする。そして、仮説形成の作法を守って、他の原因ゆえである可能性を排除する。「人々は「自由(な意志)」よりも石をパンに変えるような「奇跡」を望んでしまう」として、「イエスが奇跡を起こそうとしなかったことだけが原因である」と大審問官は言うのである。「奇跡が、そして奇跡だけが」、人々をイエスに向かわせると大審問官は言おうとしているのである。
まとめておく。イエスが奇跡を起こさない理由は、⓪イエスは単なる人間だから奇跡など起こせないから、という当たり前の理由だけではない。それ以外にも以下のふたつ考えられるとおもう。①イエスは、人々のために石ころをパンに変える奇跡などをこれまでに何度も起こしてきたわけだが、もし「この石をパンにしてみろ」とか「水の上を歩いてみろ」という呼びかけに答えれば、イエスは人々のためにではなく「自分が神の子であることを証明するために」石ころをパンに変えることになる。ところで、証明するという行為は、証明の対象が疑い得ると認める行為でもある。だから、イエスは、自分が神の子であると自分でも信じているならば、証明の必要はないとして挑発を退けねばならなかった。つまり、自分が神の子であることが疑い得るものだと認めるわけにはいかなかったから、という理由。
そして、②イエスは人々が自由意志の発揮によって人々が信仰に目覚めることを期待しており、パンやワインに目がくらんでついてくるというのではダメだと思ったからという理由、である。
「お前は世の中に出て行こうと望んで、自由の約束とやらを土産に、手ぶらで行こうとしている。ところが人間たちはもともと単純で、生まれつき無作法なため、その約束の意味を理解することもできず、もっぱら恐れ、こわがっている始末だ。なぜなら、人間と人間社会にとって、自由ほど堪えがたいものは、いまだかつて何一つなかったからなのだ。この裸の焼け野原の石ことが見えるか?この石ころをパンに変えてみるがいい、そうすれば人類は感謝にみちた従順な羊の群れのように、お前のあとについて走りだすことだろう。もっともお前が手を引っ込めて、彼らにパンを与えるのはやめはせぬかと、永久に震えおののきながらではあるがね。ところがお前は人間から自由を奪うことを望まず、この提案をしりぞけた。服従がパンで買われたものなら、何の自由があろうか、と判断したからだ。」