Ryo

大人は判ってくれないのRyoのレビュー・感想・評価

大人は判ってくれない(1959年製作の映画)
4.8
「非行に走った理由も考えずにただ子供を叱るだけの大人」

フランソワトリュフォーの原点とも言える初長編作品。ヌーヴェルヴァーグの代表作です。

単なる子供の感じる恐怖や共感して欲しいと言う気持ち、大人批判だけでなく反社会的と言うだけで1人の少年を放棄し自由も規制する現社会への批判も描かれていたように感じます。余計なものを削ぎ落としシンプルかつ深い映画です。


ある監督の作品は初監督作品に全てが詰まってると言われてる。トリュフォーの場合も同じ。さらにトリュフォーの実体験だから尚更感動する。トリュフォー自身母親とその彼氏に使いっぱにされ家で1人で残され愛情を受けずに育ってきた。
ストーリー以外の見所はジャンピエールの演技(本当に素晴らしい)、哀愁漂う音楽が素晴らしすぎる。

ー子供が非行に走る理由ー
その多くは自分の居場所を見つける為に非行に走る子や親にへの僕をもっと見てよという表現だと言われています。

ーメッセージー
この映画(特にラスト)から読み取れるメッセージは「理解者がいなくても、孤立してでも、親に捨てられてでも頑張って現実に立ち向かい生きていくしかない。頼れるのは自分だけ」ということ。
誰にでもある自分の気持ちをわかってくれないという苦しさ。特に大人には判ってくれない思春期の子供たちの気持ち。そんな普遍性のある物語になっている。
もう一つ子を持つ親に対して、子供(主に思春期)の気持ちを突き放すのではなくできるだけ理解しようとする努力が必要という事。

子供はばかじゃない。劇中でもあったように母親には必要のない存在という事を息子は既に知っている。この親が息子の居場所を作らず新たな居場所を息子が求めたら厄介者扱いし施設に強制する。どんな事をやっても世界を敵に回しても親は子を守り味方であるべきだと思う。
反社会的と言うだけで1人の少年を放棄し自由も規制する現社会への批判にも感じられます。

主人公はトリュフォーの分身であり勉強に集中できずいたずらばかり、親もいつも喧嘩ばかりで居場所がなくなりいつしか彼の居場所は「映画」になっていた。いつしか非行少年と見定められ感化院(非行に走った少年の保護、教育を目的とした施設)に入れられたという。当時のフランスはひどく精神病院に入れられることもあったという。そのため映画としてではなく本当にこういう子がいたんだという感覚で見てください。ただ一つ勘違いしないで欲しいのは「子供の映画への愛」という話ではないということ。


映画のストーリー、ざっくりいうと(ネタバレ)、
母は浮気に専念しており、もともと母との関係が良くない少年が、学校をさぼった日にその姿をドワネル少年は目撃してしまいます。目撃後、急に優しく接してくる母の思惑が、かえってドワネル少年の心に悲しい影を落とすのでした。さらに家庭や学校生活の中で次々に周囲の大人たちに打ちのめされ、尊厳を踏みにじられます。愛情を求めるがために反抗する態度やいたずらにより周囲から「不良少年」として扱われるアントワーヌ。両親や学校の先生は、その理由がわからず、ただ叱るばかり。いつしか主人公の居場所は「映画」と「同い年の友達」だけになる。鬱屈の末に家出、窃盗を行い、ついには感化院(非行に走った少年の保護、教育を目的とした施設)からの脱走を図ります。。反抗的態度はだんだんエスカレートし、とうとう親から見放されてしまうというもの。

始めは、ただのいたずらっ子だったのに、
両親(特に母親)の愛情を求めるがために反抗する態度の真意(科学的には子供は他人から見放されないため、それから自分がその人から注目されその人の注意を引くことによって愛されてると感じる。好きな人にいたずらをするのと同じです)を親が汲み取れず、少年をどうしようもない悪ガキと判断してしまう。一番判ってくれず、一番判ってほしいのは、この母親なのですが(心理学的に、母と息子は一心同体とも言われているそうです)急に優しさを見せたり、「子供が不要だ」と最大の禁句を言い放ってしまったり、非常に不安定です。いつしか主人公の居場所は「映画」と「同い年の友達」だけになる。当時のフランスは実際に非行に走った少年を鑑別所や精神病院に入れてたこともありそんな所から、「おとなは判ってくれない」と名付けたのだろう。この邦題はかなり好き。

原題は「Les Quatre Cents Coups」意味は「400回の殴打、大騒ぎ」といった意味で、フランスにおいて400回とは「とても多い」ことを表す表現です。日本でいえば「九十九里」「千本ノック」といったところでしょうか。「400回の殴打」は、文字通り少年アントワーヌが心に受け続けた打撃や、次々に降り掛かる出来事の数々を表したものでしょう。

また教師の描かれ方も酷いです。一見なかなかの好人物にも思える風でもあるのですが、彼はアントワーヌを問題児視していて、明らかに目の敵にしています。宿題をやってこなかった罰として休み時間に黒板いっぱいの書き取りをやらせられているアントワーヌが、前の晩読んでいて感銘を受けたユゴーに影響を受けて、自らの不平不満を詩にして黒板に書く殴るのですが、教室に戻ってきた教師がそれを生徒たち全員の前でさらしものにするのです。「ここに大先生がいらっしゃるぞ」とか「大先生は文法を間違っていらっしゃるぞ」とか散々笑いものにします。少年の純粋なあこがれとか自己発露の欲求とか、こういう心の成長に欠かせないような大事なものを平気な顔で踏みつけにします。彼らは気に入らない相手を大勢の前でさらしものにする事によって、その小さな自尊心を満足させているのですかね。決して、「敢えて踏みつけにする事によって強く育って欲しい」なんていう親心からじゃありません。

父親(血は繋がっていませんが)は最初息子の唯一の理解者だと思っていました。それに家族で映画館に行く時の主人公の顔は笑顔に満ち溢れてました。そんな不幸には見えなかったのですが父にも母にも見捨てられそれまでの生活は全て嘘だったのかと思うと悲しい気持ちになります。

この主人公と同じ体験をしてるトリュフォーはなぜ非行に走るのかを考えずにただ叱るだけの大人が嫌いだったのでしょう。そのためこの映画での唯一の理解者に同い年と友人を用いてるのだと思います。

ラストは一番傷つくであろう親からの否定、そして鑑別所から逃げて逃げて海にぶつかる。もう海にぶつかった以上逃げる場所はない。カメラ目線で終えたラストは「これ以上逃げる事は出来ない、僕には居場所がないよ。苦難ばかりの人生だけど現実に立ち向かい頑張って生きるしかない」と訴えかける最高のラストです。


つい観客として俯瞰で見てしまうと主人公のやってる事は盗み、いたずら、失敗など全て自分の責任だから仕方ないと思ってしまいますが、大人を一旦離れ子供心になって観ると痛い程主人公とこのタイトルに感情移入できます。

フランソワ・トリュフォーに関する著作で有名な映画評論家、山田宏一の著書からの一文がある。
「『大人は判ってくれない』の少年、アントワーヌ・ドワネルは『親にいじめられた子ではなく、単に見捨てられた子だった』のであり、やさしい愛撫もなく、はげましの言葉もなく、人間的接触や言語的環境を奪われた子だったのだという認識が、『ドワネルもの』とよばれることになるトリュフォーの自伝的シリーズの本質的なある部分を『野性の少年』の教育論にみちびきことになる」

少年鑑別所でパンをつまんだ罰でビンタされるシーンは何度みても泣きそうになります
Ryo

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