ROY

ワイルド・スタイルのROYのレビュー・感想・評価

ワイルド・スタイル(1982年製作の映画)
-
1983年に公開され、グラフィティ文化をはじめとするヒップホップ・ムーヴメントの金字塔となった映画作品。

Le Cinéma Clubにて鑑賞
→https://www.lecinemaclub.com/now-showing/wild-style/

■STORY
1982年、ニューヨーク、サウス・ブロンクス。レイモンドは謎のライター “ZORO”として、深夜の車両基地へ忍び込み、地下鉄にグラフィティを描いていた。 “ZORO”のグラフィティは評判を呼んだが、違法行為のため正体を明かせずにいた。そんな時、レイモンドは新聞記者ヴァージニアと出会い、仕事としてグラフィティを描かないか、と誘われるが…。

https://synca.jp/wildstyle/#

■NOTE I
ある音楽ジャンルの歴史を人間の年齢に例えた場合、今のロックは、すでに60歳を過ぎて間もなく年金生活の仲間入りといったところだろうか。1950年代半ばに産声を上げたロックンロールは、米国の黒人にとっては数あるダンススタイルの一つにしか過ぎなかったが、英米の白人にとっては大きな意味を持っていたのはその後の流れを見ても明らかだ。

大雑把な言い方をするなら、ロックは10代に入って急激に成長し始め、ティーンエイジャーとなって長髪化した60年代後半〜70年代前半に黄金期を迎え、20代でビジネスを覚えたり(英国では破壊運動が起きたが)、30代でテクノロジーやMTVを取り込む遊び心も身につけた。一転して40代はオルタナティヴでストイックに原点回帰。50代以降は落ち着いた大人の道を歩んでいる。

ロックが若者を象徴する時代はとっくに終わったし、この先何か大きなムーヴメントが起こる確率は低い(信じたいが))。いずれはジャズやブルーズやソウルのように、細く長く愛される音楽スタイルになっていく可能性が高い。

その点、ヒップホップはまだ成長を止めていない。試行錯誤しながら現在新光景を塗り替えている。年齢にすると40歳前後。脂の乗り切った時期だ。ヒットチャートを見てもヒップホップが聴こえてこない週はないし、むしろゼロ年代以降は完全に主流をなしている。「ヒップホップは音楽ではなくゲーム」という感覚を持ったデジタル・ネイティヴ世代には、なくてはならない“遊び”となった。

そんなヒップホップもロック同様、これまで様々な人生を歩んできた。まずはロックファンにもお馴染みのランDMC、LLクールJ、ビースティ・ボーイズらによるデム・ジャム勢の隆盛。パブリック・エナミーやKRS・ワンのように政治/社会色を打ち出した者。デ・ラ・ソウルらによるネイティヴ・タン/ニュースクールの振動。『Yo! MTV Raps』の放映開始。MCハマーのように“売り”に出る者。

そしてロサンゼルスからはN.W.A.を筆頭とするギャングスタ・ラップの衝撃。ドクター・ドレーのGファンク旋風。デス・ロウとバッドボーイの台頭。東西抗争に巻き込まれた2パックとノートリアスB.I.G.の死。ソウルとの融合。女性ラッパーの登場。サウスへの移動。ジェイ・Zやエミネムのデビュー……すべてヒップホップがまだ10〜20代だった頃の出来事だ。

『ワイルド・スタイル』(Wild Style/1983)はヒップホップが10歳にも満たない、つまりまだ小学生だった頃の原風景を捉えた映画。「これを観ないとヒップホップは語れない」と言われるほどのマスターピース。

作品レベルとしてはお世辞にも完成度は高いと言えないが、「あの時代あの場所に漂うリアルな空気や臭い」がドキュメンタリータッチで展開される荒々しさ。登場人物たちのファッション、パーティやクラブのシーン、グループ間の対立にも注目だ。観終われば、ヒップホップとは単なる音楽ジャンルではなく、そもそもカルチャー全体を指す言葉であったことを実感できる。

中野充浩「ワイルド・スタイル〜HIP HOPの原風景が描かれた伝説のマスターピース」『TAP the POP』03-16-2023、https://www.tapthepop.net/scene/71532 より抜粋

■NOTE II
音楽祭では、ヒップホップ50周年を記念して、80年代のサウスブロンクスを楽しく描いたチャーリー・エハーン監督の『ワイルド・スタイル』を上映する。Grandmaster Flash、Grandmaster Caz、Fab 5 Freddy といった伝説的なDJたちと、今や有名なグラフィティ・アーティストであるLee Quiñones(リー・キュノネス)を主役に据えたアハーンの映画は、フィクションとドキュメンタリーの境界線を行き来しながら、ニューヨークのアートと音楽が生まれた瞬間の大らかな雰囲気を捉えている。

『ワイルド・スタイル』の核となるのは、“ZORO”と名乗るプエルトリコ人グラフィティ・アーティスト、レイモンドの物語だ。これは、有名な覆面剣士と、入手困難な“アンダーグラウンド・ピカソ”としてのキュノネス自身の名声にちなんだものである。1981年に撮影されたこの映画は、ヒップホップ(グラフィティ、MC、ブレイクダンス、DJを意味する)が急成長する大衆現象と関わり、その精神をローカルで破壊的なものにとどめるか、それともメインストリームに滑り込ませてそのエッジを放棄するかの難しい決断を迫られる。ビル・ライス(『コーヒー&シガレッツ』、『ドゥームド・ラブ 宿命之恋』)やパティ・アスター(『 The Foreigner』、『Underground U.S.A.』)のようなロウアー・イースト・サイドのアイコンが、ブロンクスの天才的な才能を分かち合おうとするダウンタウンの善意あるシーンスターたちを演じている。同時に、アハーンがこの自治区を越えた衝突を取り上げたことは、ニューヨークのアーティストたちの連帯感を物語っている。彼らが街中で過激な行為を奨励することで、あらゆる芸術の躍進が生まれ、そして今も刺激され続けているのだ。

「グラフィティ・ムーブメントは、線路を飛び越えることを気にせず、ブロックを横断した。そして、“オール・シティ”行きの列車を描くという全体的なアイデアは、列車が“すべての”地域に向かうことを意味していた」チャーリー・アハーン

『ワイルド・スタイル』は、ヒップホップが世界的なセンセーションになる前のヒップホップを描いた初めての作品である。「誰もヒップホップと呼ばなかったし、名前もなかった」とエハーンは振り返る。「人々はそれをMCパーティーと呼んでいた。この映画は、ヒップホップが新しくエキサイティングな大衆文化のムーブメントとして、アメリカのアートの先陣を切っていた時代をとらえている。この映画のグランド・フィナーレは、惜しまれつつ幕を閉じたイースト・リバー・パークのアンフィシアターで行われた、即席のコミュニティ・コンサートである。

1951年、ニューヨーク州ビンガムトンに生まれたチャーリー・エハーンは、「ストリートとアートの世界の間に対話を生み出す方法を見出そうとする」ことに没頭している映像作家である。1973年にホイットニー美術館のインディペンデント・スタディ・プログラムに参加した後、LESを舞台にヒップホップ・カルチャーの要素を取り入れた低予算のカンフー映画『The Deadly Art of Survival/殺人的護身術』で監督デビュー。デビュー作の製作中にヒップホップ・シーンのメンバーと親しくなった彼は、その後も『ワイルド・スタイル』や、Martin Wong、Grandmaster Caz、Busy Bee Starskiといった有名アーティスト、地下鉄のミュージシャンや近隣の人々を主人公にした、NYに焦点を当てた同様の短編映画を監督することになる。2002年には、ヒップホップの最初の10年間のオーラル・ヒストリーである『Yes Yes, Y’all』を出版し、2005年を通して、近代美術館で毎週インターネット・ラジオ番組のホストを務め、アフリカ・バンバータやランメルジーなど、このジャンルのパイオニアたちとヒップホップについて語り合った。

Text written by Nicolas Pedrero-Setzer

https://www.lecinemaclub.com/now-showing/wild-style/

■NOTE III
1983年に初公開された同作は「MCing」「DJing」「ブレイキン」「グラフィティ」の四大要素からなる<ヒップホップカルチャー>を全世界に紹介したことで知られている。

この「ヒップホップ四大要素」は、1960年代半ばから70年代初頭にかけて個別に発生しており、『WILD STYLE 』公開の数年前までは、アフリカ系やラテン系が多いニューヨークのブロンクス〜ハーレム周辺「直径7マイルのエリア」(※)で愛されるローカルカルチャーとしての色彩が強かった。また当時の「MCing+DJing」「ブレイキン」「グラフィティ」には独立したシーンが存在し、他の要素との間に共通点や関係性を見出す人間も少数だったと言われている。

しかし80年代に入ると、四つのカルチャーは「ヒップホップ」というひとつのカルチャーにまとめあげられ、わずか数年のうちに全世界に広がっていく。大きなきっかけとなったのは、四大要素のプレーヤーである7マイルエリアの若者とロウワー・マンハッタン(=マンハッタン最南部)を拠点に活動する白人アーティストの急接近だった。それまで距離的、文化的に断絶していた若者たちの間で交流が活発化した結果、1981〜83年のロウワー・マンハッタンでは、四大要素を一堂に集めて紹介するイベントが多数開催されている。

この断絶を超えたアクションこそが、ヒップホップカルチャーを加速させたと言って間違いないだろう。そして今回公開される『Wild Style』もまた、そうした流れの中で誕生した作品だ。

80年代初頭、7マイルエリアとロウワー・マンハッタンの若者たちは、どのようにリンクしていったのだろうか。いかにして四大要素はヒップホップとなり、全世界へと広がっていったのだろうか。今回は『Wild Style 』を監督したチャーリー・エーハーン氏に、ロウワー・マンハッタン・サイドから見たヒップホップ大ブレイク前夜のニューヨークについて話を訊いた。

※「直径7マイルのエリア」:ヒップホップ史学者ジェフ・チャンによれば、初期の四大要素はブロンクスの中央に位置する公園「クロトナ・パーク」を中心点とする直径7マイル(約11.2km)サークルの内側で盛り上がっていたという。反時計回りに東にアフリカ・バンバータ率いる<Zulu Nation>の地元ブロンクス・リヴァー団地、北のエデンウォルド団地とザ・ヴァレー地区ではブラザーズ・ディスコやファンキー4+1モアが活動し、地下鉄2番線と5番線の車庫がグラフィティのスポットに。西にはDJクールハークの地元であるセジウィック・アベニュー。ハーレム川を隔てて、マンハッタン島最北端にはグラフィティ・スポットである操車場「ゴーストヤード(= 207th Street Repair Shop)」。付近にインウッドやワシントンハイツがあり、そのさらに南にはハーレムがある。

取材・構成:吉田大「【インタビュー】ヒップホップを全世界に拡散した『Wild Style』監督が語る1980年のNYC | 『クリエイティビティには人を繋ぐ力がある」』」『FNMNL』09-01-2022、https://fnmnl.tv/2022/09/01/147516 より抜粋

■NOTE IV
こうした意味では、『ワイルド・スタイル』、『フラッシュダンス』が日本で公開され、ブレイクダンサーが登場し始めた1983年は、まさに日本の「ヒップホップ元年」といえよう。しかし、このときヒップホップは、ブロンクスの若者たちによる文化的ムーブメントにルーツがあるということは完全には理解していなかったという。

その背景には、ラップのリリックのように言語や文化的な翻訳を介さずとも、ブレイクダンスは非言語で視覚的、そして身体の使い方を真似て習練すれば習得できる「誰にでも開かれた身体技法」であるということがいえよう。

翻訳が必要な「海外映画」という視覚的要素に大きく依存しがちなメディアによってヒップホップが上陸したこと、また日本ではブレイクダンスが根付く土壌がすでにあったことが重なり、何よりも先駆してもたらされ、日本のヒップホップシーンを牽引していったのは、じつはブレイクダンスであったということを特筆しておきたい。

テキスト・有國明弘、編集・川谷恭平「名作『ワイルド・スタイル』から紐解く日本のブレイクダンス史。パリ五輪でメダル期待の選手も」『CINRA』08-29-2022、https://www.cinra.net/article/202208-wildstyle_kwtnkcl より抜粋

■ADDITIONAL NOTE
・サウンドトラック及び劇中の音源は、ナズ「The Genesis」、パブリック・エナミー「Louder Than a Bomb」、他、多くのアーティストの作品にサンプリング・ソースとして使用され、また映像はビースティ・ボーイズ「Root Down」のMVなどで使われている。(Wikipedia)

・『artscape』https://artscape.jp/artword/index.php/%E3%80%8E%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%80%8F

・「伝説のHIPHOP映画『ワイルドスタイル』は、どのように日本に持ち込まれたのか?仕掛け人に当時の話を聞いてみた。」アフター6ジャンクション→https://www.tbsradio.jp/articles/61276/

・「1983年『ワイルド・スタイル』初公開の熱気と『文化の衝突』―葛井克亮さんとフラン・クズイさん語る」『webDICE』04-25-2015、http://www.webdice.jp/dice/detail/4674/
ROY

ROY