電波塔せもたれ

憂鬱な楽園の電波塔せもたれのレビュー・感想・評価

憂鬱な楽園(1996年製作の映画)
4.0
ジャンルとしての「ロードムービー」を解釈し、自国の文化、社会状況に落とし込む。数多の映画監督が行なってきたアプローチを、ホウ・シャオシェンは巧みな形で実践している。

同時代の『エドワード・ヤンの恋愛時代』と近いタイミングで観たのだけれど、同じ国の上流と下流の生き方の違いを見せつけられてグワングワンと頭が揺れるような心地だった。

エドワード・ヤンは豊かさの次に必要なものは何かを、
ホウ・シャオシェンは貧しさの先の憂鬱な終わりを描く。

どちらが気持ちよくていい映画かと言われれば、そりゃあ『エドワード・ヤンの恋愛時代』と答えるけど、どちらが心に残る映画かと言われれば僕は本作と答えるだろう。

旅が旅として成立していない。

移動だ。何も得られず、ままならなさを確認するだけの。
旅の豊かさは削り取られ、残るは虚しい移動の軌跡だけ。

登場人物にとっては目新しくもない景色を巡り、
美しくない音楽が流れ、
楽しかった瞬間も虚しさに回収され、
自らの可能性が潰え、行き場がないことを悟るまでの旅。

曖昧に語るのなら、そんな映画だった。

メモ
台湾ニューシネマだなんて安易な括りだと思って嫌厭してしまっていたけれど、たしかに見事なアメリカンでないニューシネマぶりで感心してしまった。本作の大筋の退屈さと虚無さは真摯さであるとさえ思う。

即興っぽさやけだるい空気、暴力性といった表面的な部分にも感じはしたけれど、空気感のわりにアプローチが構造的なところにたけし映画っぽさがあるなと思った。ふたりをプロデュースしていた奥山和由の方向性だったりするんだろうか。それとも単に同時代性ってやつか。