なんだか、とても癒された映画。
気になったシーンなと、ある「感覚」
・静的な映像
青年リッキーは映像を撮る。ただただ、ビニール袋が宙に舞っている映像などだ。そこには、「生き物」の影は見えない。派手さもない。けれど、なぜか私は、その映像に浸れていたし、癒される自分を感じた。この「感覚」の正体はなんだろう。
・リッキーのまなざしの先
頭を撃ち抜かれた主人公、その死に顔を見るリッキー青年。彼の表情がとても印象的だった。目の前にあるのと同時に、ここにはない何かに思いをはせるような彼の視線。彼はそこに何を見ていたのだろうか。
この「感覚」を言語化するのに、次の概念が参考になった。
「世界」のありそうもなさと「名状しがたいすごいもの」
(社会学者宮台真司より)
どちらのシーンでも、その一瞬に「世界」のありそうもなさが現れている、というのだ。登場人物たちと「私」は、その可能性に「社会」を忘れて癒される。それがあの「感覚」の正体なのだろう。
その体験は、「名状しがたいすごいもの」の一端をわたしたちに示す。例えば、なぜ私たち生命は生きていられるのか、などの大きな問いに想いを馳せる瞬間や、なぜこんなにも桜を見て綺麗と感じるのか、などの具体的な体験を通して、なんだか「凄いなあ」と感じたことがあると思う。
言葉で説明はできなくても、この「感覚」を知っている人は多いはずだ。「説明できない」ということそのものが、すごいものの "すごさ"を示唆する。
リッキー青年は、ビニール袋が舞う映像と同じような何かを、レスターの死に顔にも感じ取ったのだろうか。
彼は、生前のレスターが変わっていく過程を知っていた。そして、彼の「終わり」もその目で確かめた。
そこには、レスターの「一瞬だけでもの充実さ」の発散があるように見えた。それは、「名状しがたいすごいもの」が、一人の人間から漏れ出している様である。
言葉という社会を飛び出た何か、それを感じ取れるアンテナをわたしたちはまだ持っているのだ。
そして、「世界」を知れば、私自身の実存、つまり生き方をメタ化できる。こうした「社会」から飛び出す体験こそ、癒しをあたえてくれる。たとえ一瞬だけであっても。