こーた

ストーカーのこーたのレビュー・感想・評価

ストーカー(1979年製作の映画)
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これは「ゾーン」へとむかう人びとを描いた物語なのか、はたまたこの映画自体が「ゾーン」なのか。観ているうちにわからなくなる。
案内人〈ストーカー〉に導かれて、映画を観ているわたしも、いっしょになって「ゾーン」を旅する。
かれらが疲れて休息すれば、わたしもいっしょになってウトウトする。
わたしの状態が、わたしの感情の変化までもが、まるで映画の一部であるかのように、「ゾーン」とわたしが呼応する。
わたしは映画をただ「鑑賞」していただけなのに、気がつけばそれは「体験」へとかわっている。
映画とわたしの境界が、あいまいになる。

旅の道連れは、小説家と物理学者だ。文学と科学の両面から、真理を探究するものたち。
ふたりはじつに、よくしゃべる。自らの不安を打ち消すかのように、自説をぶちあげ、議論をたたかわせる。
かれらが言葉を尽くすほど、その論理は空虚さを増す。
議論ばかりでは、道は開けない。恐ろしくても、先へ進まなければならない。
そのことに、実はふたりも気づいている。
だから黙々と歩く。苦しくても、怖ろしくても、一歩一歩たしかめるように、慎重に前へと進んでいく。
来たのと同じ道を引き返すことはできない。自らの精神状態によって、「ゾーン」はそのすがたを目まぐるしく変えるからだ。
それは人生そのものでもある。
歩くというシンプルな動作に人生が凝縮され、動くことそれ自体が映画になる。

「ゾーン」が人生であるならば、目指すべき「部屋」とは何だろうか?
人生のゴール、それは死だ。ひとはみな死ぬ。みんな死に向かって生きている。
でも、その死というゴールを目指して生きているわけではない。
人生は、道程にこそ意味がある。

散々遠回りしたあげく、なにもせずに戻ってきたら、その道行きは無駄だったということになってしまうのだろうか。
そうではないと信じたい。
たとえなにも成し遂げられなかったとしても、戻ってきたその場所の風景は、まえとは違ってみえるはずだ。錆びたモノクロにも色がつく。
だから怖ろしくても、まえに進もう。
ときには不安に感じることもあるけれど、わたしには心強い案内人〈ストーカー〉がついている。映画という案内人〈ストーカー〉が。
映画はモノクロの人生に色を与えてくれる。
映画がわたしを、人生の正しい方向へと導いてくれる。