真一

楢山節考の真一のレビュー・感想・評価

楢山節考(1983年製作の映画)
3.8
 初見。私たちの運命を左右する「社会保障」の在り方を、深く考えさせられる名作だと感じた。舞台は、江戸時代の信州。飛騨山脈の山あいにある極貧の集落には、生まれた赤ちゃんをくびり殺す「間引き」に加え、70歳に達した者を奥山(楢山)に捨てる「姨捨(うばすて)」の風習があった。「自分も70歳になった。連れていきなさい」と毅然と訴える老母(坂本スミ子)と、言われるままに老母を背負う息子(緒形拳)。封建的な村の同調圧力に黙々と従う親子の姿に、胸が締め付けられました。

 確かに、70歳になった人を山に捨てるなんて、今の時代では考えられないし、そもそも犯罪だ。でもお年寄りを「社会のお荷物」とみる向きは、私たちが暮らす現代日本にも、間違いなく存在する。「長生きリスク」なんて言葉があること自体、その証左だ。5年前のホスピス財団のアンケート調査をみたら、長生きしたくないと答えた人のうち、その理由について「家族に、周囲に迷惑をかけるから」と回答した人は、実に60パーセント。「楢山におらを連れて行け」と叫んだ老母の社会保障観そのものだ。

 新生児をくびり殺す「間引き」も、同様だと思う。「貧乏になるから子は持てない」という間引きの動機は、教育費や養育費による負担増を懸念し、子を持ちたがらない現代日本の夫婦やカップルの考えに通じるものだ。そう考えると、あのおぞましい風習も―誤解を恐れずに言えば―当時の避妊や中絶と位置付け、合理性を見いだせる気がする。「うちの老父母や子どものことで、よそ様の手を患わせてはいけない。一家の恥だ」という、あの村人たちの社会保障観を、数百年後の私たちは、それなりに裕福になったにもかかわらず、確実に受け継いでいると思う。「公助」「共助」を恥と受け止め「自助」を尊ぶ考え方です。

 貧しかった当時なら「自助」に基づく間引きや姨捨にも、ある程度の合理性が認められたかもしれない。でも、基本的人権が保障される現代において「自助」「自己責任」を声高に訴えるのは、いかがなものか。「100歳まで生きるなんて、迷惑そのもの」と思ってしまう風潮を野放しにしておくのは、いかがなものか。本作品は、前世代の論理を引きずる現代社会の社会保障観を問い直す角度から観るのが、いいかもしれません。

それにしても、老母が健康な歯を恥じ、前歯を石でたたき割るシーンは衝撃!スプラッターには最近慣れてきたんだけど、この生々しい場面では目を背けた。痛すぎる!坂本スミ子さんの熱演に圧倒された2時間でした。
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