紅蓮亭血飛沫

ぼくらの七日間戦争の紅蓮亭血飛沫のネタバレレビュー・内容・結末

ぼくらの七日間戦争(1988年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

今となっては異常としか言いようのない厳し過ぎる校則(体罰常習化、生徒に無断で持ち物検査、地毛であるにも関わらず髪を弄った疑いをかけて締め上げる、スカートの丈を細かくチェック等)を振りかざし、生徒の人権をガン無視した抑圧的環境に痺れを切らした中学生の男女は、食料と生活必需品を携え廃工場に立てこもる。
連れ戻そうとする親や教師達をあの手この手のトラップで撃退する日々が続く中、廃工場の奥から戦車を見つけ出し、少年少女達の勢いはさらに活発なものに。
この籠城生活の行く末は…。


邦画の有名作の一つ、と言っても過言ではない本作。
ジャケットに一際大きく映っているように、宮沢りえ氏の存在が本作の知名度を一層底上げしているのではないでしょうか。
兎にも角にも全編通して、少年少女達のエネルギッシュっぷりが凄まじい!
まるで奴隷のような扱いを受ける日々から脱却する為、というのが発端でしょうが、廃工場に立てこもるだけでなく大人顔負けの対人撃退トラップを次から次へと作り込んでみせたあの無尽蔵なエネルギー&スキルは一体どこから湧いて来るのか…。
最早DIYを職にして今後も食っていけるレベルで、中学生でこれなんだから将来は皆とんでもない職人になりそうだなぁ…。

教育者の立場を振りかざし生徒に理不尽な校則と暴力を向け、その点を保護者に指摘されると、まるで逆ギレのように家庭に責任を押し付ける教師サイドはとても見るに堪えない、外道の権化でした。
子ども達の将来の為という大義名分で抑圧し、男女が一緒にいるだけで不純と言い放つ過剰性を見せたり、何より体罰を振るう事が当然とされている環境は正に地獄。
こんな環境が当たり前の学校なんて誰も行きたがらないですよね…。
今だからこそ「こんな間違いだらけの歪んだ教育なんてありえない!!」と糾弾出来ますが、"全学共闘会議”を初めとした生徒達による暴動の歴史を見るに、昔の教育現場というのはこれが常識だったのかもしれない、と思うとゾッとします。
誰かが「これはおかしい事だ」と言おうものなら集団・世間から一方的に叩かれたり、一個人の甘えで片付けられていたのかもしれない。
教育という大義名分を掲げれば、自分の思想・行動を正当化する事が許される社会にはなって欲しくないものですね。

私個人としては、本作からは"正義の暴走”を強く感じ、その"正義”の為ならどんな事だってしていい、とする恐ろしさを少年少女達からも、教師からも感じられました。

教師達は校則や暴力を肯定する為に何かと"将来の為”や"教育”を持ち出してきますが、それらへの是非はさておき、理屈としては分からなくはない。
教育者として働く以上、生徒を将来的に素晴らしい人間へとさせる為に奮闘している、その思想は分かります。
むしろ、かなり昔の教育現場における時代背景もあるのでしょうが、"躾と題して過度なまでの仕打ちを施す事が当然とされた時代”を過ごしたであろう教師達には、ある意味哀れにすら思えて来るのです。
そのような環境で育った教師達からすれば、それが教育者としての当然の権利・教育方法だと染みついているのかもしれない。
そして何より、劇中通して教師達は反旗を翻した子ども達に一泡吹かせられたのに対し、彼らは「自分達の教育が間違っていた」とは微塵も考えてなさそうなのが虚しい。
教師達が自分達の教育に向き合う尺がなかったのかもしれませんが、何故生徒達がこれ程までに意地になっているのかを真剣に考えようとする素振りが一切なく、ただただ「けしからん!」の一点張りで子ども達をこれまで通りの環境に連れ戻そうとしている。
子ども達が何故そのような行動をとったのか、その意図を全く汲もうとせず、まるで自分の思想・行動は間違っていない、とでも言うかのように。
生徒を連れ戻す事に躍起になるあまり、教育者としての矜持が抜け落ちてしまうようでは、教育者としていかがなものなのか。

一方の少年少女達は、生活の大半を占めるであろう学校という場での理不尽な抑圧的環境からの脱却、そして自分達を苦しめた教師達への反抗が指針となっています。
特に中学生のような年頃は思春期真っ只中というのもあるでしょうから、所謂反抗期に差し掛かる時期でしょう。
親からは常に勉強と口酸っぱく言われ、自分の子どもが家出して立て籠もったというのに身の安全よりも内申書の話をし出す…。
学校に行けば教師からいびられ、家にいれば親からもストレスを与えられる。
こんな環境にいると生きてる心地がしないというか、生活に全く彩りや遊び心といった余裕がない為に、ある日ぱたりと倒れてしまいそうです。
我慢の限界を迎え、生徒達は独自のコミュニティを形成し、大人達へと宣戦布告。
黙ってはいられない大人達は、遂に警察に通報し機動隊を突入させるも、子ども達が仕掛けた膨大なまでの対人トラップに撃退されていくのですが…。
子ども達が自分達を苦しめた大人を懲らしめる、というのは分かるのですが、無関係な機動隊まで巻き込まれてかなり散々な目に遭わせられているシーンが長かったせいか、段々"正義の暴走”を感じてしまったんですよね。
大人達が悪い、というのは当然としても、教師・親以外の大人にまでその矛先が向けられたのが成り行きとはいえ釈然としないというのもあります。
しかし、この光景が長く続けば続く程、映画を見てるだけの第三者でしかない私は「いつまでこんな事をしているんだろう…?」と僅かながら考えてしまったんですよね。
生徒達の境遇には勿論同情しますし、生徒達を苦しめた教師達は痛い目を見るわで清々はします。
が、この立て籠もり事件を通してただただ我が子が心配でしょうがない親がいたかもしれないし、仕事上駆り出されただけでここまで痛めつけられる必要性はなかった機動隊の散々な光景を見た途端、この事件は生徒達も教師達も、揃いも揃って自分達の暴走が招いた事でしかない。
つまるところ、タイトルにあるように"戦争”の虚しさが残るのです。
互いに自分の行動・思想を正義と信じ、その為なら相手をどれだけ痛めつけても、周囲を巻き込んでもいいとするという点では、どちらも大差なかったですし、何よりその果てに得られたものはなんだったのか。

この立て籠もり事件が解決した後、籠城生活を共にした子ども達は学校からの帰り道と思われし場面で「次はどうする?」と一人が問いかけると、「次は国会議事堂かな!」と全員乗り気でジャンプするシーンで本作は終わりを迎えます。
その場のノリで言っただけなのかもしれませんが、偶然見つけた戦車を起動させたり数々のトラップを利用して大人を撃退してみせたこの子達が言うと洒落にならない、ゾッとさせられるものがあります。
少年少女達の"正義の暴走”が、今回で懲りたとは思えないラストシーンは爽やかでありながらも、同時に一抹の不安を抱かせる。

しかし、この鬱屈とした生活から抜け出して立て籠もった少年少女が見せた笑顔は紛れもない本物でしたし、命の輝きを感じられたのも事実。
いつもの日常風景では中々見せなかったであろう、心の底からの笑顔を仲間と共に分かち合い、人生を謳歌している。
"将来の為”を言い分に今しかない10代としての人生をまともに過ごさせてくれなかった結果、子ども達は本当に将来、"いい大人”になれるのでしょうか。
むしろ今回の事件を通し、反抗した子ども達は「自分達は大人に抵抗してみせたり、大人を成敗する程に色々なものを作ったんだ!」と今後の人生を歩む上での大きな自信を得たのかもしれません。
少年少女達が歩むこれからの人生の基盤として、今回の事件を経て培ったものがあれば、それこそ"教育”の一環なのではないしょうか。

本作は子ども達の反抗を通し、教育の在り方を今一度問いかけていますが、単なる問題提起だけでなく、一つの答えをも提示しています。
そう、立て籠もった少年達を影ながら応援し、食料を持ってきては子ども達と和気藹々とコミュニケーションを取っていた西脇先生です。
少なくとも、生徒達を校則や暴力で抑圧する事なく、いつも穏やかな口調で親身に寄り添ってくれる西脇先生はこの学校で一番生徒からの人望が厚そうですよね(現に生徒達を抑圧する気が強い教師を目にした生徒は露骨に表情が曇っていましたし)。

西脇先生と仲睦まじく会話をする場面を通し気付いたのですが、別に子ども達は"大人”を毛嫌いしているわけではないんですよね。
子ども達は"頼れる大人”が極端に不足している環境にいる、これが大きいように思います。
過剰な暴力や校則で束縛するわけでなく、生徒の心に寄り添う教育者が当たり前の社会が当たり前であって欲しい、と願うばかりです。
その為にも、教師も生徒も共に尊敬し合う気持ちが大切なのだろうな、と。
こちらの言い分を一切聞かず、ずっと痛め付けられてきた日々への鬱憤があるからこそ子ども達も自分の心境を伝えられなかった(言っても無駄だし聞いてくれない)のかもしれませんし、教師は一向に子ども達の思考を読み取ろうとしない…と負のスパイラルに陥ってしまう。
お互いに相手を思いやる気持ちを持ち、力で抑圧するという簡単な手段に出る前に、まずは相手を理解しようとする心が大切なんだと思います。

長々と語りましたが、細かい事抜きで自分達を痛め付けた教師に反撃!の痛快劇としても楽しめましたし、ティーンエイジャーならではの青春模様と逞しさにノスタルジーを感じるのも良しです。
酒井先生を演じた方、もしやと思いきや倉田保昭氏でしたね!
体罰シーンで足を高く上げた蹴りが印象深かったものですから…しかし子ども相手に倉田氏は過剰暴力ですね…。