麻薬取締官に一家を滅茶苦茶にされた少女が救いを求めた隣人は殺し屋だった。
そんな突拍子もないストーリーから始まるのに、観客は徐々に二人の行方に釘付けになってしまう。
そして一観客として客観的に見ていた僕たちはいつしか、物語の行く末を見届け参加する者の一人として、この話が他人事だと思えなくなっていくのだ。
そこにあるのは、決して絵空事なのではなく、現実にあり得る愛の形なのではないのではないかと、そう思えてくるのである。
結末を見届けた人なら、少女・マチルダがどうか幸せな人生をその後送って欲しいと、そんな風に思ったはずだ。
それと同時に、例えば僕のようなおじさんは、今後痛みに震える少女がいたら、何とか助けになれれば、とそう思ってしまう。あんまりないだろうけど笑
でも、僕はそこに物語の大きな力を見る。
素晴らしい物語はそれがフィクションであることに飽きたらず、しばしば僕たちの生活に大きな影響を与えてくれる。
科学や資本主義が極度に発達し、合理化が優先されていく現代においてでも、物語が必要な理由はそこにあるんじゃないだろうか。