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パッションのRiRiのレビュー・感想・評価

パッション(2004年製作の映画)
3.9
2000年語り継がれた「受難」の物語を、現代に蘇らせた問題作

熱心なカトリック教徒のメル・ギブソン監督が自腹で3000万ドル以上出資し制作した、新約聖書の中でも最も有名かつ劇的な物語を描いた作品。

原題は『The Passion of the Christ』で「キリストの受難」という意味です。「Passion」はラテン語の 「passio」 に由来し、苦しみ・受難 を意味します。

聖書に疎い日本人がこの作品を理解するには、西洋絵画に触れる際と同じく、宗教的・文化的リテラシーが必要ですね。
キリストの受難は単なる苦痛ではなく、人類の罪を全部一人で背負った犠牲の愛、そしてただの拷問死ではなく復活に向かう道。
ユダの裏切り、ペトロの否認、ユダヤの群衆の反応など、それぞれの行動の背景や教義的な意義を知らないと、ただの拷問映画に見えてしまうかもしれません。

【聖書描写とそれ以外の創作】

本作は、イエス・キリストの死の前の最後の12時間、ゲッセマネの園での苦悶に始まり、ユダの裏切りとその後の自殺、ペトロの三度の否認、ピラトの尋問と群衆の反応、鞭打ち、十字架の道行きとキレネ人シモンによる助け、ゴルゴダの丘での処刑、そして復活までを扱っています。
作中随所に、幼少期の様子、山上の垂訓、最後の晩餐などの回想が挿入される構成です。

基本的に4つの福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)を土台にしていますが、すべてが聖書に書かれているわけではありません。どうやら一部は神秘家アンナ・カタリナ・エメリックの幻視記に基づく描写だそうで、映画オリジナルの演出もあります。
例えば:
・サタンや、サタンが抱く醜い赤ん坊
・マリアが地面に耳を当てて見守る場面
・ローマ兵がイエスに同情を示す描写
・ユダの自殺シーン(聖書では簡潔に書かれていますが、映画では悪霊に取り憑かれたかのように苦しむ演出が追加)
・ピラト総督の妻クラウディアがマリアにリネンを渡す場面
・マリアの回想(幼少期のイエスとのやり取り)
など、母の愛を強調する創作も多いです。

【リアリズムにこだわった撮影】

台詞はすべてアラム語・ラテン語・ヘブライ語という古代語で撮影。メル・ギブソンは、あえて現代語を用いないことで「時代と文化の隔たりを観客に感じさせたかった」そう。言語的な障壁もあって資金集めが難しかったようですが、英断だったと思います。

ロケ地はイタリア南部のマテーラ周辺。まるで聖書時代に迷い込んだかのようなリアリティ。
キリスト役のジム・カヴィーゼルは、実際に鞭が当たって怪我をしたり、低体温症や肩脱臼、落雷まで経験したと言われています。

【キリスト教徒、ユダヤ教徒からの賛否】

本作の評価はキリスト教徒の間でも賛否が分かれています。「キリストが人類の罪の為に受けた受難を深く知りたい人」には刺さり、「神の愛を感じたい人」は違和感を与える内容です。

主に保守派保守派・福音派の間では大きな支持を受け、公開当時は数多くの教会が映画館を貸し切って信者向けに上映会を開催したそう。
米国のキリスト教右派は映画を福音宣教ツールとして積極的に活用し、一部では、観賞後にその場で洗礼を受けたり、信仰を新たにする人々もいたそうです。

プロテスタントの夫も公開時劇場で鑑賞し、よく出来ていると思ったと言っていました。
個人的には、聖書の記述や抽象化された宗教画では伝わってこないキリストが耐えた壮絶な痛みの生々しさが感じられ、「イエスの血によって人は贖われる」という神学観がより理解できました。

一方で、進歩的な教派・神学者からは否定的な意見もあります。暴力表現が過剰で、神の愛や赦しよりも怒りと刑罰が強調されている点であったり、復活の描写が数秒にとどまり、キリスト教の“希望”の部分が軽視されている点が批判されています。贖罪を“血の代償”としてのみ描くのは危険な神学的偏りだとする意見もあります。
ちなみに、メル・ギブソンのカトリック観がバチカン公認の現代的なカトリックより保守的であるため、教皇庁(バチカン)は公式に映画を支持していないそうです。

私個人としても、復活の描写がサラッとしすぎていてもう少し語って欲しかったですが、再びジム・カヴィーゼル主演で続編を鋭意制作中とのことなので、そちらに期待することにします。

■反ユダヤ的とされる理由

最も大きな論争は「antisemitic(反ユダヤ主義的)」とされた点です。
作中では、カヤパらユダヤ人指導者たちがピラト総督を圧迫して冷酷にイエスの死刑を要求する一方、ピラト総督は苦悩する姿が描かれています。また、群衆がユダヤ人で構成され「磔にせよ!」と叫ぶ描写があり、キリストの死の責任がユダヤ人にあるように見える演出もあります。

マタイの福音書27:25にある「この人の血の責任は我々と我々の子に」(※イエスの死の責任を自ら引き受けるという意味合い)との台詞は、ヘブライ語で言われて字幕からは削除されていますが、映像でははっきり口が動いています。
この構成が、中世以降の「ユダヤ人=キリスト殺し」という反ユダヤ主義的発想を想起させるとして、アメリカのユダヤ人協会(ADL)や世界ユダヤ人会議(WJC)から強く批判されました。

そもそもですがメル・ギブソン自身が過去に反ユダヤ的発言をした過去があり(後に謝罪)、こうした演出は監督個人の信条として受け取められました。

観た感想としては、確かに、映画的演出やキャラクター描写で“善悪の構図”を強調していると言われても仕方がないかも知れません。
特に、ユダヤ人がキリスト教徒から差別・迫害を受けてきた歴史を考慮すると、現代において“神殺し”のイメージを再び定着させることを恐れる気持ちも分かります。
ただ、個人的感想としては聖書のストーリーをなぞっているだけであり、サタン(=悪)の存在をはっきりと具現化しているので、配慮はあったのではと思いますが…あくまで個人的な感想です。
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