Jeffrey

ブリキの太鼓のJeffreyのレビュー・感想・評価

ブリキの太鼓(1979年製作の映画)
5.0
「ブリキの太鼓」

〜最初に一言、「地獄の黙示録」とパルムドール賞を受賞した白熱の79年の最大の傑作にしてシュレンドルフ監督の代表作になった本作の、圧倒と堪能と感動の3拍子に揃え、映画の力強さ、深遠さ、見事な象徴的リアリズム、特異な映像美学、ドイツ表現主義の魅惑、ブラックユーモアの鋭さ、エネルギッシュな猥雑さ、知的な優雅さ、シニカルで度肝を抜かれる二転三転の展開。まさにこの映画を見終わっても消える事のない数々のシーンの残像…脳裏に焼きつくグロテスクさと興奮が私を襲った。正に戦慄的な1本である〜

冒頭、第一次世界大戦の自由都市ダンツィヒ。1人の子供オスカル、彼の家族、誕生、不思議な力、大人への扉、サーカス、ナチの台頭、魚中毒、海辺、母の葬儀、魔法の粉、空を舞う修道女、ポーランド人の従兄、太鼓との決別。今、波瀾万丈な物語が始まる…本作はフォルカー・シュレンドルフが、ギュンター・グラス原作を映画化して、1979年にカンヌ国際映画祭(アカデミー賞でも外国語映画賞受賞、キネマ旬報外国語映画ベストテン1位)にて、コッポラの「地獄の黙示録」と共にパルムドール賞を受賞した大傑作で、この度2年前に購入した貴重な吹き替え初収録の163分版ディレクターズカット(特典83分)のコレクターズ版BDにて再鑑賞したが面白い。この作品が今も中華人民共和国では上映が禁止されており、ー部のドイツ関係の施設での上映のみであると言う…幼児ポルノ関係がネックなのかわからないが、この映画も上映された当時は、色々と賛否両論だったそうだ。主演のオスカルを演じたダーフィト・ベンネントは、後に数本の映画に出演しているが、私はこの作品以外に見たことがない。

本作は79年のカンヌ国際映画祭で、コッポラの作品とどちらがグランプリを取るのかで連日火のような論戦が続いたそうだ。黙示録を支持するものは、この超大作が完成した事の重大さがわからないのかといい、「ブリキの太鼓」を支持するものは、作品の質を見れば黙示録を比較に出すなどおこがましいとやり返した。フランスのル・モンド紙のジャン・ド・バロンセリは、「ブリキの太鼓」にはグランプリにふさわしいすべて備わっていて、歴史的現実に根ざした主題のオリジナリティーとテーマの豊かさ、冴えきった演出力、優れた俳優たちと、中でも、辛辣で悪魔的な、小さな証言者オスカルを演じきった驚異的なベネント、この映画には全てがある。政治的メタファー(オスカルは20年間冬眠を続けていたドイツの罪の意識の象徴)と解釈することもできるし、スウィフト流の諷刺のクロニクルとも考えられると述べているようだ。前置きはこの辺にして物語を説明していきたいと思う。


さて、物語は1927年から45年に至るダンツィヒ(現ポーランド領グダニスク)。その郊外のカシュバイの野で4枚のスカートを履いたアンナ・ブロンスキがジャガイモを焼いていた1899年、彼女のスカートの中に放火魔コリヤイチェクが逃げ込み、やがて生まれたのがオスカルの母アグネス。第一次大戦が終わって自由市となったダンツィヒで、成長したアグネスがドイツ人のアルフレートと結婚し、従兄のポーランド人ヤン・ブロンスキと愛し合って1924年に生まれたのがオスカルである。1927年、オスカル3歳の誕生日。母は約束通りオスカルに赤と白に塗り分けたブリキの太鼓をくれた。がこの日、大人たちの世界を知りすぎたオスカルは、これ以上大人たちの世界に近づかない、1センチだってこれ以上大きくならないと決心して、ブリキの太鼓とともに叫び声をあげて地下の倉庫に転落する。

その日からオスカルの成長が止まり、人々はそれを事故のせいだと信じた。と同時にオスカルには不思議な1種の超能力がついた。オスカルが太鼓を叩いて叫び声を発するとガラスが粉々に割れるのだ。居間の柱時計のガラスが、そして街灯のガラスが。6歳になったオスカルの入学式の日には、太鼓を取り上げようとした先生のメガネが、そして彼を診察しようとした医師の標本ビンが、この超能力の犠牲になった。毎週木曜日、アグネスはオスカルを連れて街に出て、ユダヤ人のおもちゃ屋マルクスの店に行く。そこへオスカルを置いて、近くの安宿で、ポーランド郵便局に勤めるヤンとのあいびきを重ねているのだ。それを遠くから見たオスカルの叫びは市立劇場の大窓を次々と割って警察を慌てさせる。

第3帝国が成立してダンツィヒを狙うヒットラーの声が町中のラジオに流れた日のことだった。両親と3人で出かけたサーカス見物で、オスカルはべブラ団長と出会う。近頃の子供は3歳で成長止めるようになったのかねと一目でオスカルの秘密を見破る彼。彼自身も10歳で成長止めた人間で、オスカルに小さい人間の生き方を論ずる。大きな人間に舞台を任せたら、演壇を作りパレードをやらかすだけだと。時勢でナチ党員になり、パレードに参加するマツェラート。身の危険を恐れながらポーランド人であることを隠そうとしないヤン。パレードに潜り込んだオスカルは演壇上の教育部長レープザックと、楽しくワルツを踊る人々。海岸へ遠足に出かけたマツェラート一家とヤンの4人。アグネスは、沖仲仕が引き上げた馬の首からはい出るうなぎを見て激しく嘔吐する。

アグネスはヤイの子(?)を妊娠していた。全く口をきかなくなり、魚のアジを食べる彼女を心配して、彼は祖母のアンナを呼んだ。アンナには、すぐに分かった。しかしそのために、アグネスは自殺してしまう。ナチの勢力は日増しに強くなり、ポーランド人とユダヤ人に対する迫害が始まった。店を焼き討ちにされて死ぬおもちゃ屋マルクス。そして1939年9月1日、ポーランド郵便局襲撃事件が起こる。偶然から、オスカルを追って郵便局の中に入ってしまい、仲間とともに拳銃を取るヤン。いつもオスカルの太鼓を修理してくれる門番の男も銃をとっている。勝てるはずのない戦闘と知っての抵抗だ。アグネスが好きだった3人遊びのトランプゲームを砲火の中で始めるヤンとオスカルとその男。男は戦死し、降伏したヤンはハートの女王のカードを手に銃殺された。第二次世界大戦の始まりだった。

マツェラート家に16歳の少女マリアが来た。店を見るため、オスカルの母親代わりとしてたが、オスカルも今は16歳だ。オスカルともベッドを共にし、マツェラートのお相手もするマリアは、やがて妊娠してマツェラートの妻、つまりオスカルの義母となってクルトを産む。が、オスカルはクルトを自分の息子と信じて、3歳の誕生日にはブリキの太鼓を送ると約束して再開したべブラ団長の前線慰問団に加わって旅に出る。慰問団のヒロイン、ロスヴィータとの幸福の甘い恋の日々。しかし、連合軍の襲撃の日、彼女は爆撃であっけなく死んでしまう。オスカルがデブラ団長にダンツィヒまで送ってもらった日にちょうどクルト3歳の誕生日で、ドイツ敗戦の前夜だった。マツェラートたちが隠れていた地下室もソ連兵に発見され、ナチの党章の隠し場所に困ったマツェラートは、党章を呑み下そうもし、針が喉に引っかかって騒ぐ中射殺される。

彼の葬儀。母アグネスを失い、2人の父を失って孤児になったオスカル。成長すべきか否か。ブリキの太鼓を彼の棺の上に投げて、再び成長することを決意した瞬間に、クルトが石投げをしていた石が頭に当たってオスカルは気絶する。祖母アンナはオスカルを介抱しながら、カシュバイ人の生き方を語り、西へ行くようにと論ずる。無意識のまま再び成長始めたオスカルを西へ運んでいく汽車が、カシュバイの野を去ってゆく…とがっつり説明するとこんな感じで、凶暴さと優しさがあり、苦悩と錯乱、巨大な黒い笑いと不合理のセンスが合い混じって非常に風変わりな作品になっている。監督はグラスの小説の持つ叙事詩的な構造とリズムを見事に映像化していたと思う。繰り返して言うならば、この映画がグランプリにふさわしいと言う当時の審査員らは全く以て正しいと思う。結果的には2作品ともグランプリを受賞したが、「黙示録」は映画が完成したことが事件であったとすれば、「ブリキの太鼓」は映画そのものが事件だったと言えるのではないかと言う論調もあったと思われる。どうやら1959年に出された原作は、現代世界文学の傑作と評価され、映画化の申し込みも殺到していたそうだが、原作者はこれを断っていたそうだ。いずれも、部分の映画化しか考えていない企画ばかりだったからだとか…。

ポーランド人もドイツ人も少数民族カシュバイ人も共に住む街がこの作品の舞台になっている。歴史的にも、第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約によって国際連盟保護課の自由市になり、やがてドイツ第3帝国の夢を掲げたヒットラーに侵略され、第二次世界大戦のきっかけとなるポーランド郵便局襲撃事件が起こる町である。実際に劇中にもその郵便局が襲われるシーンに大量の火薬を使い圧倒的な演出で見せている。そして、3歳で大人になることを拒否して自ら成長止めた少年オスカルの目を通して描かれる滑稽な大人たちの世界に、ポルノグラスと言う名を奉られるほどのセンセーショナルで膨大な原作を、部分の映画化しか考えていなかったのも無理はないと思うが、見事にそれを完璧な映像化にした監督は偉大である。本作は、700万円(約7億円)で制作されていて、それを遥かに凌ぐ興行成績はものすごく、西ドイツでは公開7週目で300万人を超える観客動員を誇り、最終興収は2000万マルク、この作品1本で年間60本弱の西ドイツ映画の興行収入の3分の1を超えたと言うのだ。

パリでは、カンヌ映画祭でグランプリを分け合った「地獄の黙示録」と同時期に封切られて48週間のロングランで57万人を動員(黙示録は37週90万人)アメリカではニューヨークだけで24週150万人の動員をし、バラエティー誌のチャートに23週ランクされて200万ドルを超える大ヒットとなったそうだ。いゃ〜、いつの時代見ても色褪せない傑作である。それにしても相変わらずモーリス・ジャールが作曲したオリジナルテーマの素晴らしさは本当にやばい。すべて9曲本作にあるが、民族楽フヤラを使っての雄大な叙事詩的な音楽が、心に染みるような深い映像と相まって最高の映像を作り出している。特にメインテーマのカシュバイの野は好きである。そもそも彼がミックスした自身の指揮によるナショナル・フィルハーモニック・オーケストラが演奏しているシークエンスなどは圧巻である。大人になることを拒否した少年の目を通し、戦争がもたらす不条理な悲劇、時代に翻弄される人間の愚かさをどの世界を見ても探せない異色の叙事詩的に作られたノーベル文学賞作家の代表作をグロテスクな毒気のブラックユーモアたっぷりに作り出した魅力的なセンセーショナル映画である。

やはり冒頭から非常に魅力的である。畑で1人の男が助けを求め、スカートの中に男を隠した女性がじゃがいもを焼きながら食べるファースト・ショットで始まり、子供の声でナレーションが始まる。今回は人生初のテレビ朝日ウィークエンドシアターの吹き替え版で初鑑賞した。今回で4度目位の鑑賞になるが、今まで全て(収録がされていなかったため)字幕だったため、日本語で見るのもまた新鮮だ。ダニエル・オルブリフスキーがアグネスの従兄弟で恋人役で出演しているが、彼と言えばポーランド映画の巨匠アンジェイ・ワイダ監督の作品に多く出ていて、好きな役者の1人である。特に「戦いのあとの風景」はお気に入り。しかもこの作品の合作相手のフランス側のプロデューサーは、大島渚監督の「愛のコリーダ」に始まり「愛の亡霊」寺山修司監督の「支那人形」のプロデューサーでも知られているアナトール・ドーマンである。

にしてもベンネントのオスカル役はハマりすぎてて恐ろしい。彼は、撮影当時12歳の少年で、ミュンヘンのオペラ劇場でドラムの勉強中を監督に発見されたらしい。あのギョロ目がすごいインパクトがある。おじさんにナイフで身長測ってもらうなんてことない場面でもその無言の眼差しは強烈である。その後にテーブルに潜って大人の破廉恥な世界を覗いてしまう。それが大人になることを拒み、身長を自らの手で止めようとする行為を起こすきっかけになるのだ。それが自ら階段から落下すると言う方法で低身長が止まってしまうと大人たちは思い込む。続いて、太鼓を取り上げられそうになって叫び声を出すのだが、それが高音の叫び声でガラスが木っ端微塵に割れる能力を持つのだ。このハイスペックさが凄まじい。その後は自分でワイングラスなどを持ってきて割ったりする練習をする。そんで学校の先生に太鼓を取り上げられそうになって、お決まりの叫び声でまずはクラスの窓ガラスを割って、その後に教員のメガネをぶっ壊して狼狽する女教師の姿が滑稽だった。彼女もオスカル同様に高音の叫び声を出していた(笑)。

この時のオスカルのクローズアップがなんとも印象的だ。あの既に殺人を犯しているんじゃないかと言うダミアン(オーメン)的なあの微笑み方、すごい。そんで今度は病院で検査を拒んで、無理矢理服を脱がそうとする先生の診察所の実験道具までも割ってしまう始末。高音域ってやっぱすげえなぁ…。そんで笑えるのが、女性に勉強習っているオスカルが、上の空で、自分が読んで欲しい本を取り出して、ラスプーチンに関しての本だからまだ早すぎると断ると、目の前にあったグラスを割ろうとする仕草を見せて(半ば脅しのような)それに気づいた女性がグラスを後ろの棚に置き、しぶしぶ本を読んであげる場面はもう既に6歳のオスカルがヒトラー並みの独裁者ぶりを発揮していた。しかもその前にソファーに座ってケーキをたらふく食べているオスカルの表情が機械的で怖い。そんでカメラ目線で長セリフを淡々と話す彼もすごい。

またオスカルが屋上で、というか鐘置き場で、大声を出して窓ガラスを割って、それが落下して下に歩いていた人々や馬車の馬がガチで驚いているシーンがあるんだけど、すげえリアリティーがあった。てか、あの窓ガラスを割る仕掛けてどうやってやってるんだろうと気になるものだ。そんで基本的に真顔でほとんど笑顔を見せないオスカルが、ピエロのサーカスのショーを見て笑う場面があるんだけどなんとも貴重なワンシーンだなと思った。てかどの映画でもサーカスのシーンを見てしまうとフェリーニ思い出す(笑)。最近ではロブ・ゾンビのホラー映画もそうだけど。そして「ゴッド・ファーザー」も思い出される、海でのうなぎ取りに使用されてる馬の首の描写のグロテスクはなんとも気持ち悪い。その後に母親が狂ったかのように生の缶詰の魚、ニシンの塩漬けをかぶりつく場面は嘔吐寸前になる。てか、母親が魚だけを食べて発狂死していくのは何とも言えない気持ちになる。というかあの馬の首の場面っていうのはベックリンの幻想絵画の映像化と言っても良いのではないだろうか。そもそもこの作品にはたくさんのエロチシズムが集まっているが、ブニュエル的なエロスも漂わせている。

この作品中盤あたりになるとナチスとポーランドの戦争になるんだけど、かなり火薬使って迫力満点の映像を使っている分、この作品相当金使ってるなと思う。後から店にやってくるマリアとオスカルの浜辺でのイチャつきはすごいきわどい。しかも今回初の吹き替えで見たけどそのマリアの声優が俺の大好きな(ベルモット(名探偵コナン)Dr.スランプアラレちゃんの声など) 小山 茉美ってのがアゲアツ。あの粉末粉をへそに入れてオスカルが舐めたり、マリアが指につけてそれをオスカルが舐めたり、非常にエロティックである。あのベットシーンもそうだし、アンダーラインにオスカルがかぶりつく場面などが幼児ポルノとして大問題になったんだと思う。しかも途中でオスカルが、乱入してオスカルの父親とマリアのセックスシーンの親父のケツの後に自分の股間をくっつけてやる場面は3Pみたいだ。Sandvik bros.のLunarが流れる中小人のロズベータが爆弾で死んでしまう場面は悲しい。この作品がクライマックスの線路の長回しの帰結はなんとも好きである。美しい原風景、冒頭に戻るかのような演出がたまらない。

今思えば面白いことにパルムドールを受賞したこの2作品が決してベトナム戦争映画を作っているわけでもなくナチスドイツをめぐる戦争映画でもないことが明らかに提示されているのがなんとも印象的である。エロチシズムを過激に描き、ポルノ批判も受けた本作は、出す女と飲み込む女の対比も描かれており非常にメタファー的である。歴史や社会や、愛情が浮かび上がってくる本編も印象的だが、肉体場面も非常に見ごたえがある。男と女それぞれの存在が確認されていくのだ。それにしてもこの映画を数十年前に見たときに、パッケージの裏のプロットを読んで非常に惹かれたことを思い出す。1番興味をそそられたのは、3歳の誕生日以降、自らの成長することを拒否したと言う文面だった。この映画を若い時にテレビで見た際の冒頭からあっけにとられたことも思い出す。何が凄いって、母親の胎内にいる時から意識を持ち、自分の誕生を自分で見届ける早熟ぶりに驚くのだ。

そしてこの長い160分を超えるディレクターズカット版を見て、ふと気がついたことに、3世代の女性が現れる中、冒頭に出てくるスカートを4枚履いた女(オスカルの祖母)は唯一生き残るのである。これはネタバレになってしまうから言いたくなかったが、いわば、そのスカートと言うのは男たちによる獅子の懐、安らぎの場所なんだろうなと思ったのだ。暗く閉ざされたあのスカートの中は果たしてどういった匂いがするのだろうか、何が見えるのだろうか、そういったのを考えてしまった。呪われた子供シリーズのホラー映画というのは山のようにあるが、この作品もその一種にカテゴライズできると私自身は思う。実際に原作は読んだことがないが、この映画からすると1人称と3人称の混合で描かれており、オスカルが自分で言うように、父親を死に追いやって、母親まで殺すきっかけを作ってしまったのだから、そういった呪われた子供映画に代表されるような念力もしくは怨念で彼らを殺す死の影が彼には取り巻いているのではないだろうか。結局最後の最後に〇〇もう死んでしまうし…

この映画の監督はドイツ人であるが、原作者はポーランド人の血を引くため、ブリキの太鼓の赤と白はまるでポーランドの旗を彷仏とさせるではないか。まさに彼にとって失われた祖国を象徴するような作品であると思う。見事なまでに傑作である。今思えばシュレンドルフ監督は、レネ監督やルイ・マル監督、メルヴィル監督の作品の多くを助監督している。確か71年に来日したときには、小川伸介監督を三里塚に訪ね、「第二砦の人々」のカメラを回したと言う話もあったのではないだろうかあやふやだからわからないが。とにもかくにも彼の初期の作品出てる「テルレスの青春」と言うのがあるのだが、日本ではVHSしかなく、未だに見れてない。買おう買おうと思っているのにどこにも出品されていないし、中古屋に行って探しても出てこない。いつになったら見れるのやら…。

それにしてもこの「ブリキの太鼓」の舞台となった都市は色々と複雑である。何が複雑かと言うと実際に現在ではポーランドが所属しているらしいのだが、ドイツ人から言えば植民地と考えている人もいるし、ロシア人から言わせてみれば解放区とされている。さらに本作にも登場してくるもう一つの民族、カシュバイ人の存在もある。このファシズムが台頭してくる時代のヨーロッパの都市を舞台にした作品で有名なのは、フェデリコ・フェリーニの「アマルコルド」(後にモニカ・ベルッチ主演の「マレーナ」などもある)と言う傑作があるのだが、あれも少年と言うよりは青年に近い男の子の目線で当時を見つめている作品で、本作同様に少年の物語であり、彼らにフォーカスして作られた故郷を映し出している。本来はカシュバイ人の地である為に、他の民族に二重、三重と領土化された複雑な歴史を持つことになる。実際に、オスカルの祖母が履いている印象的な4枚スカートは、カシュバイ人、ポーランド人、ドイツ人、ロシア人の4つの民族の象徴なのかもしれないと言う人もいるようだ。

でも、昔に見たクストリッツァ監督の多くの作品には、ジプシーが登場するが、そのジプシーの女性たちも何枚もスカートを重ねて履いていたように思える。果たしてジプシーの血が入っている民族とでも言えるのだろうか…。日本では十二単と言って名前の通り12着着る伝統服があるように、女性は重ね着するのが色々と歴史的に多くあるなと感じた。この映画、どこかしら滑稽な逆転の立場があって、そうだな、今は色々と言葉に気をつけないと差別的に思われてしまうためすごく慎重に言うが、最初に言っておくと何一つ悪気は無いのでご了承いただきたいが、この作品と言うのは健常者であるナチスドイツ(容姿的に普通とされている人間)と小人と言う健常者ではなくどちらかと言うと障害者側のスタンスに立っている側の人間が正常であるかのような立場を持っているのがポイントだろう。何が言いたいかと言うとナチスドイツは誰が見たって異常なものであり、小人と言うのは健常者から見れば普通ではないと思う人も現実にはいる。しかしながらこの映画は、子供目線=小人がナチスドイツを見ているのだ。そしてそれは=悪と言う意味合いで、この映画が展開されているところを見ると、何とも皮肉な構成をとっているなと思ってしまうのだ。長々とレビューしたが、最後に余談話をする、監督のフォルカー・シュレンドルフが「ブレイキング・バッド」の主人公ウォルター・ホワイトのブライアン・クランストンに非常に似ている。ただそれだけ。
Jeffrey

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