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祇園の姉妹のniのレビュー・感想・評価

祇園の姉妹(1936年製作の映画)
4.5
依田義賢脚本。
昭和32年のキネマ旬報別冊に、本作の脚本の掲載があり、依田さんの「『祇園の姉妹』のころ」というコラムが載っている。
依田は29の時、童貞であったと。それで、祇園の加藤楼という屈指の店に毎日ように取材へ行き、「おかみさんの電話をかけるところから妓たちの生活、はては出入りのお客様さのことまで」毎日克明にノートに綴ったという。自分の目に映したものをそっくりそのままノートした、とある。「それはなんと嘘の多い世界であったか」。
こうしてノートされたものをまとめたのが本作のシナリオだそうで、溝口のところへ持っていくと、以前漫才師の兄弟のことをやろうと言っていたが、祇園の姉妹におちついた、といういきさつがあるそうな。

脚本と本作の違いはいくつかある。
ラストが顕著で、古沢が京都を後にした列車の中で、店の定吉と話す場面。定吉は、何も言わずに残してきた梅吉のことを気にするが、古沢は「また手切の金でも送ってやるがな、それであいつらは喜びよるわいな」と言うシーンが脚本にはある。
梅吉の思いは古沢には何も届いてなかったことが、はっきりと強調されているが、これは本作ではカットされていた(私のみたバージョンでは。本来は90分あると言う話もある)

さて、本作は「義理人情」に固い姉の梅吉と、男なんて出し抜いて利用してやれという妹おもちゃの、対照的性質の芸者姉妹の物語である。
おもちゃは、木村をいい気にさせて反物を得たのち、それがバレて怒りにきた木村の店の主人といい仲になったり、聚楽堂の主人を梅吉とくっつけようとして、金を巻き上げたり、古沢を諭して家から追い出したりする。その一方で、梅吉は古沢に一途なのだ。
こう書いてしまうと、さぞ、妹のおもちゃが、ひどい、世渡りに長けた狡賢い女に聞こえるかもしれないが、彼女が男を手玉にとる、理由のすべては「姉のため」であるところがポイントだと思う。

姉の結婚を心配しており、着物の用意や、相手の手配、古沢を追い出すなどしているのだが、梅吉はそういうおもちゃの不義理を怒って家を出る。

最後、逆上した木村によって、大怪我をさせられたおもちゃは、梅吉に「なんで芸者みたいなもんが、この世の中にあるのや」と、どうしようもない思いを口にし、彼女たちの嘘の多い世界の中で、どうしようもない身の振り方を嘆くのである。

本作は京都弁のセリフの回し方が非常に気持ちがいいし、梅吉、おもちゃのキャラクター造形も、衣装に始まって、非常にわかりやすい(姉は和装、妹は露出の多い洋装)。
そして、物語の終わり方も、非常に簡潔で分かりやすいと思った。
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