カラン

シルビアのいる街でのカランのレビュー・感想・評価

シルビアのいる街で(2007年製作の映画)
5.0
シルビア、男はシルビーと呼ぶ。6年前。教会裏のバー、「飛行機乗りたち」”Les Aviateurs”で、忘れられない女に出逢った。これが劇中で最も具体的な事柄。男は女を明るい陽光のなか、眼差しで、あるいは、歩いて、街を探しまわる。男は「彼」でしかないし、女は「彼女」でしかない。街の音、通りを抜ける風が印象深い。



☆映画を作るもの

①ガラスのスクリーン

シルビアとフランス語でもスペイン語でも書かれているのだが、彼はシルビーと呼ぶ。「シルビー」と彼が呼びかける相手が本当にシルビアなのかどうかは不明である。とにかく劇中で「彼」がシルビアを見出したとき、店内の暗がりに「彼女」はいて、彼のいる側は陽が当たっており、周りにたくさんの女たちがいる。その女たちがガラスの表面にイメージとして定着する。彼女も暗がりの中でガラスに近接しているので表面に向かって透過してくる。こうして後にも先にもその一瞬のイメージでしかないショットが形成される。このようなスクリーンとしての反射と透過の面は、カフェのウィンドウ以外に、電車の窓でも繰り返し出現するモチーフである。

②風力ノート型映写機

彼女を探す彼は、カフェにいる女たち、往来にいる女たちの素描をノートに描く。輪郭線は描ける。顔のラインとか髪型とか鼻筋とか。しかし眼差しを描けない。彼は彼女たちをひたすらよく見る。何枚ものデッサンを描くが、眼差しを描けず、女から女へ、シルビーを探して、歩き回り、女たちを見て、デッサンして、ノートをめくり続ける。あるいは、風がノートをめくっているのかもしれない。彼の指先からノートが奪われると、ページは風に合わせてぱらぱらと音を出して、ノートのページ上の女たちの絵が動きだす。風がコマ送りする映写機というわけだが、それは自然で気ままな映画となるだろう。往来に置かれた風に吹かれる装置が生み出す映画なのだから。

③劇中で劇を書く脚本家

映画の冒頭。第一夜、第二夜、第三夜と、スペイン語の字幕が黒を背景にしてチャプターのように提示される。しかし、字幕には「夜」nocheとあるが、この映画の大部分は昼日向の話である。この字幕の解釈はなかなか興味深いところではあるが、置いておくとしよう。で、第一夜と提示された後で、ベッドに座った彼が小さな鉛筆を持って、思案している様子である。次にカフェで彼女の顔の探求に至る。そのさいに彼がノートに書き記すのは、”Dans la ville de Sylvia”である。彼は彼が出演する映画内でその映画についてのノートを書いている。

映画というのは自ら製作している映画のプロセスに関するドキュンタリーにならざるをえないのだと、ジャック・リヴェットがどこかで言ったらしい。ただ、この『シルビアのいる街で』に関して、映画の内部で脚本家がその映画自身に関する本を書いているという指摘で私が言いたいこととは少し違う。


☆生成する映画、生成する世界

映画の脚本家がその映画の内部に露出しているということで私が言いたいのは、この映画は出来合いの脚本に基づいて、既に完成しているストーリーボードのイメージをできるだけ正確に撮影するというようなものではないということだ。

この映画では、彼が見たいものを彼は分からないから、彼女の顔を描けないのだし、したがって《彼女》は彼女たちのどれでもありえるということだ。ピラール・ロペス・デ・アジャラの分身の位置に立ちあがる《彼女》は、黒髪だがショートのカフェの店員であるし、顔に傷を負ったサングラスの女、タバコをくれるよう物乞いする女、落書きされた壁の入り組んだ街路の日本人と思しき女。テーブルを転がるグラスを見つめていた書き物をしている女、道を転がる瓶の前に座り込んだでっぷりとした中年女。私たちはこの世界を生成する映画を通して、フレームを決め、話の筋を歩きながら考えることになる。そして風が吹くのを待つのだ。私たちは一人一人、生き生きとした世界に住まうことができる、この映画とともに。

誰でも彼女でありえて、それは教会の空に広がる鐘の音や街路に響く皮のサンダルの音でもよかったかもしれない。この映画の今において立ち上がりつつある世界は魅惑的であるし、風が舞えば映画がそこに映る。ラスト近く、彼がまた赤いトップスとスカートの女の後を追って走り出す。


☆2つの夜のシーンと字幕の夜

1つは「飛行機乗りたち」というバーで彼が彼女に話しかけ、彼女は他の男と踊るシーン。もう1つは幻想的なシーンで、夜の闇と薄い迷光で、全ての形態が闇に溶けて現実と夜の夢が青く混ざり合うシーンである。彼であろう、うつ伏せに顔をこちらに向けて、瞳の小さな反射から目を開けているのがかろうじて分かる。カメラがゆっくり引くと、黒く茂った丘のような形状にも見えなくもないが、ほとんど全てが黒で支配されている。膝が上を向いているようにも見える。

こうしたシーンは、グザヴィエ・ラフィットとアジャラが大部分でスクリーンに映っている世界と対比して、物売りや物乞いや障害者たちといった、明るい日の下の美人の彼女たちと同じだけ映画内に配置されたマイナーな誘惑と同じ位置づけなのかも。特にグザヴィエ・ラフィットに何度か物乞いを拒絶させているのと同じことだろう。中産階級以上と下層は違う。昼と夜も違う。映画に映る大部分は昼だが、上記した2つのシーンと、「第一夜」などと書かれた黒い背景のショットはそれ自体が夜のシーンであり、映画を長くしないようにか、バランスを考えてか、それとも何も見えないのが夜なのだと言いたかったのか、いずれにしても夜のシーンを表す「夜」という字幕なのかもしれない。その場合には、シーンの具体的な長さを度外視すれば、昼も夜も同じだけ映画になっているということになる。たしかに映写は光の投射と反射だが、反射したものが可視的になるには闇が必要である。とにかくこれは映画なのである。




DVDで視聴。16mmの荒い感じの撮影であるとしても、フォーカスは若干甘いのではないか。ゲリンのソフトはとんでもない値段で取引されているが、メーカーはさっさとリマスターして、値段を控えめにして再販したほうが良い。中古販売やせどりは映画界には還元されない。といって、ストリーミングがこの映画の描写に耐えられるのか。
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