おおこうち

墨東綺譚のおおこうちのレビュー・感想・評価

墨東綺譚(1960年製作の映画)
3.5
 虚構だとわかっていながらも、自分を騙し、否、騙されていると「思い込み」映画の構成、脚本、演出に呑まれていく、そんな感覚を味わいたいと思ったことは誰しもあるだろう。それは娯楽として映画を見るのだから、「これから私を楽しませてくれよ」といった上から目線でDVDに手を伸ばしたり、劇場に足を運んだりする。それは当然の行為だ。当然だ、少なからず、小説や映画、舞台というものは観客、読者に楽しんでもらわなければ成立しない。楽しまれてなんぼのものである。
 しかし、この映画はそういった娯楽への接し方に挑戦状を叩きつける、そういった物となっている。
 花柳界、風俗街で身を売り借金を返済し銭を得る。最初はある程度稼いだら足を洗おう、借金が返し終わればやめよう、そして普通の生活に戻ろう。そういって彼女らは身を売り、時には「真情のようなもの」まで売る。売って得る物は泡銭。真っ当な者になれない人、哀れで儚い、だが、美しい、そう彼女らを崇拝すると同時に見下しながらも、そういった人々たちの生き様を一種の「娯楽」として楽しむ、自身は安全地帯にいながら、この作品の原作はそういった内容である。
 大正から昭和にかけ、耽美派の作家らは様々な視点で女性の美しさを描いた。谷崎は純情で可憐な女性像を、荷風は玄人で、非現実的な華やかな女性像を、この二人の作家のテーマこそ「女性の美しさ」という点においては同じであるが、女性に対する価値観が違う。どちらが良いか、そんなものは見る人によって違うが、娯楽として見るなら荷風の作品の方が呑み込まれる。
 現代の作品では、交通法違反を犯しているショット、暴力的なショット、性的なショット、犯罪を助長するようなショット、それらは規制され、どんどん表現の自由は無くなってきている。「娯楽」としての虚構の自由さ、そしてそれらの自由度を狭めているのは製作者ではなく、常に上から目線で作品にあたる我々自身であることを考えさせるような、そういった作品であった。
 英語教師である種田順平を演じる芥川比呂志は、芥川龍之介の息子である。どことない色気、確かに種田、大江匡の役にぴったりであるが、原作にもある通り、学生演劇を嫌いってた荷風の原作の映画に、学生演劇に力を入れていた芥川比呂志がこの役を演じることに感慨深いものを覚えた。
 脚本の話のまとめ方もとても良い。大衆に受け入れられやすい話に書き換えてあるので、原作を未読の人でも楽しんで今作を見ることができる、そういった工夫がなされている。
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