しゅん

ダークナイトのしゅんのレビュー・感想・評価

ダークナイト(2008年製作の映画)
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IMAX特別上映にて。実は観てない映画の一本でしたが、結論から言うと全然好きになれませんでした。

とにかく飽きさせないように設計されている。ストーリーを展開していく際に冗長さを排除し、スピード感と音圧で押し切る。重厚な音楽はほとんど鳴りっぱなしだ。
展開が速すぎて細かい設定は一度観ただけでは拾いきれない。ゴードンはどうやって生き延びたのか、レイチェルとハービーを狙った爆弾はどのように仕掛けられたのかなどのストーリーの重点となる謎もよくわからないままだ。だが、それは瑕疵とは言い切れない。黙説法で物語を伝えることによってクールな感覚が映画に加わるし、高速の情報処理を強いることが観客の快楽につながっているとも考えられる。だいたい処理が追いつかないとしても話の流れは理解できるようになっているし、語ること/語らないことのさじ加減は見事な案配である。

だからこそ、細部を切り捨てるからこそ、この映画の中心的な物語の杜撰さが気になって仕方がない。ヒース・レジャー演じるジョーカーの存在感は確かに強く魅力的だ。だが、ヴィラン役のジョーカーを輝かせるには、バットマン×警察側の戦略があまりに行き当たりばったり。ジョーカーに痛い目に遭わされながら、何故警察は対策を打てないのか。市長の演説、検事の輸送、病院爆破の脅迫、二つの船を使った脅迫。どれだけダメージを受けても、総合的な戦略分析が為されない。何故ジョーカーを留置する時に見張りを複数人ではなく一人にしておいたのか。何故もっと窓の少ない場所で市長を演説させてターゲットを絞ることを考えないのか。高度な防衛・捕獲体制を凌駕することで悪役の不気味さが輝くのに、あの稚拙さに対してならちょっと賢ければ誰でも騙すことができるだろう。ジョーカーを巡る全ての攻防が茶番である。誰でも策略を立てるとジョーカーは作中で罵るが、実際には誰も策略など立てられていないし、幼稚な追いかけっこに終始している。ジョーカーを光らせているのはヒース・レジャーの演技のみで、演出や脚本の援護射撃が一切ない。「悪を証明したい」というジョーカーの動機も、全くもってくだらない。少し脅せば人間の負の部分が見えるなんて当たり前のことで、証明するまでもない。善悪二元論の解体が本作のテーマだとするなら、どうしてトリックスター役として善悪を相対化しているはずのジョーカーが単純な善悪二元論を元に悪を証明しようとするのか。もちろん善と悪の問題は解決できる問題ではなく、大いに考えるべきだが、本作ではそもそもの善悪の設定があまりに単純化されているために(司法や社会が絡めばもっと複雑な様相が現れるはずなのに)中学生の善悪感程度の回答しか引き出せていない。
だいいち、何故さっさとジョーカーを殺さないのか。もちろん原作を基準にしたお約束であろうし、バットマンとジョーカーは表裏一体だからお互いを殺せないというエクスキューズは用意されている。しかし、それもジョーカーの「俺とお前はコインの表と裏でお互い殺せない」というゲーム設定にバットマンが乗せられているだけで、ゲームに乗ってしまうことの必然性も映画内では語られない。ただ、バットマンとジョーカーが二人そろって似た者同士と思い込んでいるからそれが必然なのだという話である。それでは中高生の思い込みの恋愛心理と何ら変わりないではないか。そんなものを何故ありがたがる必要があるのか。
この映画には深い洞察に導かれた問答など一切見られない。幼稚な問いを深刻面で真面目そうに引き延ばしつつ大事な細部は捨て去っていくという、くだらない会社の会議のような映画なのだ。

唯一の例外があるとすれば、ブルース×レイチェル×ハービーの三角関係だろう。ブルースの自負がレイチェルの気持ちを見えなくさせる。しかし、ブルースはそのことに気付けないまま、勘違いの中で生きている。仕事を成すことと人を愛することの相剋こそが、この映画の一番の肝なのではないか。そう考えると、アルフレッドがレイチェルの手紙を燃やすシーンが、本作の一番のハイライトにも思える。

アメコミ映画の良さが一切わからないというのは以前から感じていたところでしたが、おそらく史上最も評価されているアメコミ映画を前にしても不能感は変わりませんでした。あ、『ローガン』は好きだけど、あれは老いの映画だしなぁ。
しゅん

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