三樹夫

機動戦士ガンダム F91の三樹夫のレビュー・感想・評価

機動戦士ガンダム F91(1991年製作の映画)
4.2
THIS IS ONLY THE BEGINNING.(これは始まりにすぎない)
逆シャアより時代設定は30年後。主人公の住むスペースコロニーに敵MSが侵入してくるというファーストと同じ始まり方をする。ヒロインのセシリーがいいとこのお嬢様だったりでセイラ感がある。アムロとシャアの話を終わらせ、新たなガンダムを作るという意志を感じる。
TVシリーズとしても検討されていたが劇場版として公開となり、その結果TVシリーズ2、30話を1本の映画にまとめたというようなもの凄いぶつ切りのダイジェスト感がある上に中だるみもする。F91初出撃から次シーンのぶつ切り様ったらないし、アンナマリーがスペース・アーク側につくのもなんとなく脳内補完できるがよく分からないし、セシリーがクロスボーン・バンガードに行って主人公サイドに戻ってくるのとかもよく分からない。ただし何かよく分からんが凄いものを観たと相変わらずなる。
台詞回しは前作逆シャアよりさらにスパークしており、「あなただって、強化人間にされたからっておじい様に反逆をしています、でも、少しでも人間らしさを残しているのなら、今すぐこんな事は止めなさい」の台詞がどんどん早くなっていくのがもの凄いドライブ感が出ているし、鉄仮面との台詞の応酬から間髪入れず質量を持った残像が始まると、スパークする時のボルテージの高まり様は凄い。

今作のテーマを挙げるとすれば政治体制と女性だろうか。連邦が上から末端まで半端じゃないレベルで腐っており、機能せず腐敗した民主主義に対してコスモ貴族主義という貴族制が出てくるというか、民主主義が機能せず腐敗すれば自ずとコスモ貴族主義みたいな訳の分からんものが生まれるというのが正しいか。コスモ貴族主義は、一応は血筋に拘らない貴族主義なのでロナ家ではないザビーネも貴族になれる。またノブレス・オブリージュを信条とし特権階級の高貴なものには責務が伴うと、民主主義が打倒した懐古的な考えが復活する。貴族主義つっても特権階級に胡坐組んで腐敗したらどうすんのと、貴族の精神性任せかみたいな、胡散臭いのが出てくる。かといって民主主義の連邦はあの腐りようだしでもうどうしようもない。
F91から富野由悠季の女性期が始まり、『ブレンパワード』ぐらいまで続く。Vガンはマリア主義っていう女性優位主義みたいなのが出てくるし、ブレンはオーガニック的な何かというか性的な何かみたいな、女性に焦点が当てられる。どうすればニュータイプになれるかというのでは、今まではアクシズ落としてでも重力の鎖を断ち切ったりララァの死亡など何か大きな喪失がニュータイプの覚醒へつながっていたが、この映画では女性がニュータイプへと導いてくれるとなっているように思える。最後のセシリーを探すことが、シーブックのニュータイプへの大きな目覚めだろう。母親設計のF91に息子が乗り込むのは完全に子宮のイメージだし、スペース・アークのクルーが艦長代行や操縦士など女性ばかり、そもそも話の発端が鉄仮面とナディアの関係だし、アンナマリーがスペース・アーク側につくのもザビーネとの痴話喧嘩が理由みたいになっているし、つーかビギナ・ギナって…と女性がかなり押し出されている。また男なんてどうしようもない感もあり、出てくる大人の男が碌でもない奴ばかり。鉄仮面も継父も本当にどうしようもないクズ。若本ボイスと渡部猛ボイスのおっさんも半端じゃないクズで、男はもうどうしようもない感が漂っている。だから女性というようになっているように思う。

連邦の腐りっぷりが半端じゃなくて、若本ボイスのおっさんだったりMS博物館のおっさんだったり渡部猛ボイスのおっさんだったり、連邦およびその退役軍人がクズなことこの上なく、挙句精神論しかほざかずやたら殴ってくると、これは大日本帝国のイメージなのかな。30年前の機体のジェガンがまだ現役というので、ほんと連邦だめだなとなる。例えば30年前のカローラが令和の今現在でも大量に街中を走り回っているとしたらこの国やべぇだろとなるし、分かりやすいか。
MSで市街戦を行うとどうなるかというのが描かれ、戦うことの嫌悪感が出ている。由悠季作品における反戦描写は戦うことへの嫌悪感というので表現される。子供も大人も容赦なく死に、排莢が頭に当たりあっけなく死ぬし、友達すらも一瞬で死ぬ。戦闘に巻き込まれ死ぬことが悲劇というよりも戦闘への嫌悪感がわく描写として提示される。主人公たちが文化祭をやっている時に戦闘が始まるというので、戦闘が自分たちの日常を壊すという、やはり戦闘への嫌悪感がわく描写となっている。MSで市街戦を3人称視点で俯瞰的に描写したのがこの映画で、巻き込まれる市民目線で描写すると『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』のようにまるでディザスターのようになる。

鉄仮面の仮面は自身の弱さを隠すものとして表現される。キシリアのマスクと一緒で、仮面をつけ弱さを隠し別の自分にならないと何もできない。事の発端が妻の寝取られという、本当に変な映画だ。バグでの人類虐殺もよく分からない。由悠季は次監督作のVガンのゴタゴタで鬱になるが、この映画の時も既に大分辛かったのではなかろうかと思ってしまうところがこの映画には所々ある。HPインタビューによると、鉄仮面はもっと突き詰めるべきだったとのことで、自分の子供から非難されることから逃げた、お父さんの存在を認めてほしいという心理があったので踏み込めなかったとのこと。

この映画でビームシールドが投入される。ただしこの映画とVガンのみとイマイチなアイディアと思ったのかな。手首グルグル回してビームサーベル扇風機のアイディアも登場する。
大人がクズ過ぎるので子供が苦労するという構図なのか、子供が結構いい人ばかりの中、ドロシーがすごくいい人。見た目がヤンキー女子だが、ダンバインのジェリルやZZのキャラ・スーンなど、見た目ヤンキー女子のキャラが度々出てくるが、ヤンキー女子が結構好きなのか。
THIS IS ONLY THE BEGINNINGと今のところとんでもない大嘘こいてるが、それでも信じてまだ待っているけど、近年は閃光のハサウェイやククルス・ドアンの島もやっているので、何時やってもおかしくはない雰囲気はある。でもいざ配信なり、OVAなり、映画何部作なり、TVシリーズ(一番なさそう)なりになっても、これじゃない感出そうだな。
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