2024/1/17 鑑賞。
パンフレットに「イーニドに優しい世界になってほしい」みたいなこと書いてあったけど、この映画の中の人はみんなイーニドに優しすぎるほど優しいので、それはこの映画の言いたいことではないなぁと思った。レベッカは喧嘩を売られてたまらず言い返しただけだし、それでも結局同居させてあげようとしている。あれだけ態度で不満を示されても、お父さんは娘の言うことちゃんと聞いてるし、お父さんの彼女は怒ったりしない。シーモアだってごく普通に良識的な反応をしているだけ(しかもすごい真面目に)だし、挙句の果てには「Trust me!!」と言われて貸したものでクビにまでなっているのに何も恨み言も言わないし行動(報復とかストーカーとか)もしない。みんなとんでもなくイーニドに甘い。
イーニド自身も自分の行動がいいとは思っていない。卒業式でもパーティでも、いじめられているような感じはなく、むしろスクールカーストでは上位にいるように見える。「自分以外みんなダサい」というのはまぁ青春の一時期に趣味のいい子が持ちがちな自意識だし、まわりのものをみんなクサすとかヘンなものを見つけてきて肩入れをするとか、その自意識から出る行動のけっこう典型的なもので別段個性的でもなんでもない。なまじスクールカーストの上位にいたが故に方向転換できないし、どうすればいいかわからないのが彼女のディレンマだろう。
何かやってみないといけない気がするのでいろいろやってみるけど、もうそれだけで手一杯なので結果の確認もできない。展覧会での騒動も、シーモアの右往左往も、本人がとにかくやっただけで結果の確認をしないので自分の行動の起こした迷惑をまったく知らない(たぶん知りたくないのでそうしている)わけで、改善のしようがない。本人的にはもう"消えてしまう"しかないのよね。(ラストはいろんな議論があるけど、イーニドに死ぬ勇気はないと思う。彼女になによりできないのは、今までの自分が"死ぬ"ことなので)
これ、音楽とか文学とか美術とかファッションとかのエリアだと、どうしても審美眼・批評眼が重要になってくるので、どうしても"人を斬る"方向が肥大して、このイーニドみたいなかんじになりがちなのよね。スポーツだってなまじ結果が出ちゃったり、知識がついちゃったりしたら同じだと思う。なんか「センスがいい」ってそういう人は言われがちなので、そのコトバに搦めとられてドツボにはまっていきがちで、本人的には進退窮まった状態になっていきがち。そういう状態の時は、明らかに自分が直面するのを避けている何かがあるので、それとちょっとずつでもいいので向き合っていくしかないんだなぁ。。もちろん新天地で新しく始めるのもあり。そういったことひっくるめての象徴的なものがあのバスなんだと思う。(あのおじさんだって、確かに"死"かもしれないけど、ずっと待っていた家族とかかもしれないし、施設とか生活保護的な生活の立て直しかもしれない)
すくなくともイーニドの行動は、ほんと個性でもなんでもない(個性の萌芽ではあるかもしれない)ので、そういう持ち上げ方するのはよくない。
冒頭のパーティーのシーンでのスカーレット・ヨハンソンの後ろ姿がものすごく子供でびっくりした。その分、その後の展開がリアリティある。シーモアは戯画化されてはいるけどすごく真面目でいい人。(そういうコトになった後の態度が、、っていう人もいたけど、別に態度が豹変したりはしてないよねぇ。。あれ、言葉通りに受け取って心配してるだけだと思う)人の忠告を素直に聞かないイーニドよりは、シーモアが報われるような社会になるといいと思う。
エンドロールの後にもオマケがあります。