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透明人間のペジオのレビュー・感想・評価

透明人間(1992年製作の映画)
4.3
先日観たリー・ワネル版『透明人間』を人に勧めると、「ああ、『インビジブル』ですか?」という返事がよく返ってくる
違えって…と思うと同時に、今の20~30代の透明人間といえば『インビジブル』のイメージが大きいのだなとも思った(偉大なりヴァーホーベン。)
…だが、そもそも僕にとっての透明人間とは幼少時にゴールデン洋画劇場の予告で観た「海岸を走る透明人間」という本作のどこか陽性なイメージが大きかったなあ…と思い出して本作を鑑賞(関係無いですが、昔のテレビの洋画劇場でよくあった、3週先ぐらいまでの映画を15秒ずつくらい立て続けに流す次回予告…あれ凄い好きなんだけれど分かってくれる方いますかね。タイトにまとめられた本編映像とか全然違うジャンルの連なりとかメッチャワクワクした。「また『星の王子ニューヨークへ行く』やんのかい!…まあ見るけどや!」とか思ったり。)
当時は見逃したので、なんやかんやで初鑑賞

あーなんだコレ…メッチャ楽しい映画だ(偉大なりカーペンター。)
「見せる」事に特化したアイディア満載の透明人間描写が見せる魅せる
発端となる事故のユルさだったり、CIAへの漠然とした「悪いことしてそう」感は90年代の味として心地良い
透明人間が「恐怖」になるのは「見えない」のも勿論そうだが、故に「なんでもできる」という点が大きい
だから透明人間の「まあまあなんにもできない」を強調する本作がコメディ色強めなのは必然
主人公の「主観」と「客観」で使い分けられる、透明人間の「見える」と「見えない」のバランスがそのまま「シリアス」と「コメディ」のバランスと重なっている様にも思う
ずっと見えないままだったらそれなりの恐怖も生まれたのだろうが、「実際はこうだよ」と見せる事で種明かし的なコミカルさに転化されている(悪役の視線の合わない脅迫や、友達へのイタズラ描写に顕著。)
主人公の主観が観客の目線と同期したとき、コメディとしての「客観性」が生まれてるという感じかな

劇中『ハーヴェイ』が引用されるのは、古き良きアメリカ映画の「善良さ」を本作が継いでいるという事ではないか(チェヴィー・チェイスはちょっとジェームズ・スチュアートに似てる。)
欲に溺れて悪用をせず、愛に生きるピュアな主人公は素直に魅力的
誇大妄想気味で悪用しか頭にないサム・ニールの悪役も良いし、ダリル・ハンナのヒロインも良い

先述の『ハーヴェイ』や、「君が盲目なら完璧なカップルだ。」からは『エンジェル、見えない恋人』を思い出したり、一般的に語られる透明人間映画の系譜とは違う「僕の個人的な透明人間映画の系譜」を感じたりもした(鏡を使った演出は少しだけ吸血鬼映画の系譜も感じる。)
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