ローマの女を配信している動画配信サービス

『ローマの女』の
動画配信サービス情報をご紹介!視聴する方法はある?

ローマの女
動画配信は2025年6月時点の情報です。最新の配信状況は各サイトにてご確認ください。
本ページには動画配信サービスのプロモーションが含まれています。
目次

ローマの女が配信されているサービス一覧

『ローマの女』が配信されているサービスは見つかりませんでした。

ローマの女が配信されていないサービス一覧

Prime Video
U-NEXT
DMM TV
Rakuten TV
FOD
TELASA
Lemino
ABEMA
dアニメストア
Hulu
Netflix
JAIHO
ザ・シネマメンバーズ
WOWOWオンデマンド
アニメタイムズ
Roadstead
J:COM STREAM

『ローマの女』に投稿された感想・評価

イタリア版DVD。イタリア語字幕付き。23-76(同じザンパの『Campane a martello』23-75 に続いて鑑賞)。メディアはMedusa 社の Il Grande Cinema のシリーズ。画質はよい。音もきれい。エクストラはザンパの息子のインタビュー。ちょっと残念。でもルイージ・ザンパがそ職人肌の映画人だったというのは伝わってくる。

原作はモラヴィア。そのモラヴィアはもちろん、フライアーノやバッサーニなどを交え、ザンパ自身も参加しての脚本作り。しっかり練り上げられたストーリー。アドリアーナ(ロッロブリージダ)による回想による語り。ごくごくふつうの女性が、その美貌によって翻弄され、ついには父なし子を持つことになるまでを描く。

映像もよい。奇を衒うことなく落ちついた絵作り。ディーノ・チッタ撮影所をうまく生かし、通りのシーンやモブシーンもリアルでドラマチック。室内のシーンもみごと。アドリアーナの2回の安アパートもリアルだし、最初の恋人ジーノが務める金持ちの豪邸との対比もおもしろい。

時代は1935年。ファシズム体制が安定しているころ。経済もわるくない。だから恐ろしいファストが出てくるわけではない。それでもこの時期にエチオピア戦争(1935-36)により、イタリアは彼の地を植民地化する。そのころのファシストを象徴するのが裕福なファシスト幹部のアスタリア(レイモンド・ペレグリン)。妻子がありながらアドリアーナに恋をして、便宜を図ってやろうとするのだが、あくまでも紳士的にふるまう男として描かれている。

反ファシストの活動家も登場する。アドリアーナが心から愛そうとしたミーノ(ダニエル・ジェラン)もそうだ。裕福な家の学生で活動家だが決して英雄ではない。繊細で優しいが気は弱く初心。理想はあるがリアリストではない。逮捕されると口を開き、じぶんの裏切りに耐えられず、アドリアーナの思いに応えるよりも、自死を選ぶ。

政治とは関係のないところで、自分の利害だけに生きるのがジーノ(フランコ・ファブリッツィ)であり、カルロ(レナート・トンティーニ)。このふたりが、それぞれに悪の道に落ちてゆくのを、ぼくたちはアドリアーナとともに見守ることになる。それにしてもファブリッツィはフェリーニの『青春群像』のときのままの役どころで、いかがわしい男のみごとな依代となり、元ボクサーのレナート・トンティーニはその体躯と容貌によって、ローマの街のどこにでもいそうなヤクザもの存在をみごとに表現している。

この映画をとったザンパたちの眼差しのすばらしさは、登場人物をリアルに造形してゆくときの真摯さにある。職人技といってもよいかもしれない。俳優たちは演技をしているのではなく、それぞれの登場人物を生きている。そう思わせるような演出。

そうなのだ、誰もがはじめから悪人であるわけではない。ファシストにだって人間的な男はいるのであり、反ファシストだって卑劣な思いを抱くことがあるというわけだ。暴力に生きる男だって、小さな幸せに憧れるし、他人がどうなっても自分の儲けは捨てられない。

だからザンパは、ファシストのアスタリアに「Maledetto il giorno che t'ho incontrato! Maledetto il girono che sono nato!」(君と出会った日が呪わしい。自分が生まれた日が呪わしい)と叫ばせる。こんな目に会うのなら、お前と出会わなければよかった。いやむしろ、自分なんて生まれてこなければよかったというわけだ。

そんな人間的なセリフの裏側には、人は政治信条や損得だけで生きるのではなくて、愛への渇望がある。ところが愛はどこまでも独善的で、愛し愛されることが奇跡のようなできごとだという認識がある。それは、たしかにカトリック的な認識かもしれない。

だからアドリアーナの告白を受けた神父は、できるだけ早く結婚するように勧める。結婚は秘跡(sacramento)なのだ。それは、愛が奇跡であり、奇跡を生み出す営みとして、人間の意思を超えたところ働くなに聖なるもの(sacro)の働きに関わるという信心だ。

そういう意味で非常にカトリック的な映画であり、だからこそ批評家からはぼろくそに批判されながらも、興行的にはかなりのヒットを飛ばしたのだろう。ただ単にジーナ・ロッロブリージダが主演しているからだけではない。ジーナ自身がアドリアーナという登場人物に、自分自身の生き様をも吹き込んだからこそ、共感を呼んだのだと思う。

だからここには、彼女とともにイタリアの人々が生きたファシズム時代、戦争とレジシンタスから新しい希望とそのネガがある。そしてその希望の裏と表には、時代を超える、人間的な普遍がある。その普遍が、ぼくたちにも届いている。

こういう映画を古典というのだと、つくづく思う。日本公開は1955年11月。日本語版のメディアは密林に VHS があるようだけど、円盤はなし。残念。