青雨

少年と自転車の青雨のレビュー・感想・評価

少年と自転車(2011年製作の映画)
4.0
ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番の第2楽章を、これほど効果的に用いた映画があることに驚く。クラシック音楽のなかで、最も美しい緩徐楽章のうちの1つ。作品の内容も、この曲の本質と響き合っていた。

ドキュメンタリーを出自としたダルデンヌ兄弟は、しかしそれだけの監督ではないことが本作にもよく表れている。

同監督による『ロゼッタ』が、少女に表れる女性性の何かを高い象徴度で描いているとするなら、この『少年と自転車』もまた、少年に表れる男性性の何かを、同様の地平において描き出している。



父子家庭で育った少年シリル(トマ・ドレ)は養護施設に預けられているものの、父親に捨てられた事実を認めたくない一心で(心のどこかですでに感じているからこそ)、反抗的に施設からの逃走を何度も試み、執拗なまでに父親の所在を探し求める。

彼が自転車に執着するのは、それが父親との絆を意味するからであり、『ロゼッタ』では、少女が何も持たなかったことと鮮やかに対称的。ダルデンヌ兄弟はこうした点においても、女性性と男性性の違いを深く知っている。

美容師の女性サマンサ(セシル・ドゥ・フランス)との出会いは、少年の逃走中に果たされる。週末の里親を買って出るサマンサ。彼女との関係が深まっていくなかで、「どうして里親になってくれたの?」と尋ねる少年に、「あなたに頼まれたから」と答える彼女。ここにも女性性への深い洞察が宿っている。

また探し当てた父親ギイ(ジェレミー・レニエ)の職場で、他の大人たちへの態度とは、うって変わって従順になる少年シリルには、息子としての心が、父親をどのように想うものなのかが端的に表れていた。

そして大切な自転車が盗難された先で出会う、不良少年ウェス(エゴン・ディ・マテオ)とのやりとりもまた、少年が何を心の一大事とするのかを象徴的に描いている。またその一大事に対して、サマンサという母性がどのように対立するのかも(それはもちろん善悪では測れない)。

映画はそのように進んでいくなか、やがて不良少年ウェスに巻き込まれるかたちで、少年は強盗を働くことになる。しかし彼は奪った金には何の関心も持たず、その金を父親の元に届けるものの追い返され、路上に落としたまま振り返りもせずに、夜道を自転車で駆けていく。

この切実なまでのイノセンス(無垢)。

やがて警察と司法を通して、襲撃した雑貨店の店主と調停を結ぶシリルとサマンサ。しかし、襲われた店主の息子は、恨みを捨てきれずにシリルを追い詰める。木に登って逃げる彼に、店主の息子は石を投げつけ、シリルは落下して動かなくなる。絶命を疑った親子は、偽装を講じる。

こうした一連のシーンのなかで、罪(ギルティ)を犯したシリルの無垢(イノセンス)が際立つことになる。

少年は息を吹き返す。やましさから動揺する雑貨店の親子とは対照的に、何事もなかったかのように自転車で帰っていくシリル。その姿がフレームアウトして映画は終わる。

顧みられることの少ない、人としての格調と美しさがここにはある。



このように展開するいくつかの箇所で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番の第2楽章は鳴らされる。いずれもオーケストラの序奏を短く用いながら、あの美しいピアノパートはエンドクレジットまで流れない。

この曲をよく知っていなければできない演出であり、シリルとして描かれる少年性とも深く響き合っていた。振り返るたびに、いつも唸るような思いがする。

★ベルギー
青雨

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