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乳房よ永遠なれのROYのレビュー・感想・評価

乳房よ永遠なれ(1955年製作の映画)
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こころに燃ゆる恋を詩(うた)に託し、死の床に求め得た女性の本能!田中絹代監督が女性の感覚で描く珠玉篇!!

夫への失望と、子供との別れ、病苦の発生はその夢を打ちくだく。帯広の日本を代表する歌人・中城ふみ子、31年の生涯を映画化!

若くして乳がんに倒れた薄幸の歌人・中城ふみ子の姿を通して描く、田中絹代監督が全女性に問う話題の超大作。

■INTRODUCTION
監督第3作。乳がんのため若くして世を去った薄幸の歌人・中城ふみ子の生涯を、田中澄江が脚色。松竹から移籍した月丘夢路がヒロインを演じ、乳がんで乳房を失った女性の苦悩や欲望が、女性による脚本と演出によって大胆に描かれる。

■STORY
不幸な結婚生活に終止符を打つため実家に戻ったふみ子。母親たつ子と弟・義夫の許でしばらくの幸福な生活を送っていた。ある時ふみ子は自分の乳房が疼き始めるのを知った。その痛みはやがて激痛と変わり、彼女はその痛みが乳癌からであることを知った...。(Amazon Prime)

■NOTE I
下城茂との不幸な結婚生活に終止符を打つため、ふみ子は子供二人を抱えて実家に戻った。その頃、ふみ子と幼友達であるきぬ子の良人・堀卓が外地から引揚げて来たのを機に、北海タイムス社記者である山上の家で歌会が催された。誘われるがままに何篇かの歌を出したふみ子は、堀や山上の絶賛を浴びた。彼女の悲惨な生活詩から不幸を知った歌人の堀は、見送りの途すがら彼女を勇気づけ、励ました。実家に戻ってからのふみ子は、母親たつ子と弟・義夫の許で幸福だった。ひと月ほど経った頃、仲人の杉本夫人がやって来て、離婚手続きが済んだが昇とあい子の二人を引き取ることは駄目だったと伝えた。断腸の想いで昇を良人の許に去らせてからというもの、ふみ子は母性の苦汁をなめさせられる日が多かった。そんな折、堀が胆嚢炎をこじらせて死んだ。教会で白い花々に包まれた堀の写真の前に、ふみ子は泣こうにも泣けなかった。下城家から昇をこっそり連れ戻し、親子水入らずて東京に職を見つけようと決意したふみ子は、この頃から自分の乳房が疼き始めるのを知った。その痛みはやがて激痛へと変わり、彼女はその痛みが乳癌からであることを知った…。(日活)

■NOTE II
歌人・中城ふみ子(1922-1954)の生涯を描いた田中絹代監督の『乳房よ永遠なれ』(1955)は、多くの点で著しくフェミニストな映画である。この映画の監督である田中絹代は、1920 年代後半から日本の大スターであり、小津安二郎の『卒業はしたけれど』で主演女優の地位を獲得し、日本最初の音響映画である五所平之助の『マダムと女房』(1931)に出演している。1930 年代後半には、五所平之助の『女医絹代先生』(1937年)や野村裕雅の『絹代の初恋』(1940 年)など、田中の名前が映画のタイトルに使われるほど人気を博した。

1940 年代に入ると、田中は溝口健二監督の『浪花女』(1940年)など、より挑戦的な作品に出演するようになる。しかし、当時の日本では、女性が監督をすることはほとんど不可能だった。日本初の女性監督となった坂根田鶴子(1904-1975)は、男性中心の映画界に溶け込むため、髪を切り、男性の格好をしていた。坂根が長編映画として完成させたのは、『初姿』(1936年)1本だけである。長編の資金を得ることができず、満州で撮影された一連のドキュメンタリーを監督した。その後、脚本家、編集者として溝口の作品に参加したが、溝口は彼女の映画監督としてのキャリアにほとんど貢献しなかった。

一方、田中は俳優として『西鶴一代女』(1952)、『雨月物語』(1953)、『山椒大夫』(1954)など、溝口の代表作に数多く出演していた。しかし、彼女が自分の作品を監督するために日本映画監督協会に応募したとき、溝口は「女に映画監督の資格はない」と積極的に反対運動を展開し、彼女の指名を阻止したことは、彼女にとって大きなショックだった。しかし、坂根と同様、田中も強い意志と行動力を持ち、1953年に長編『恋文』を監督、1954年のカンヌ映画祭に出品し、人気を博した。その後、『月は上りぬ』(1955年)、そして田中監督の代表作であり問題作でもある『乳房よ永遠なれ』へと続く。

下條ふみ子(月丘夢路)は、2人の幼い子供を抱え、怠惰で不倫な夫と結婚し、詩人志望の彼女のキャリアに何の役にも立たず、不幸な生活を送っている。作家として成長し始め、詩人サークルに入った矢先、乳がんと診断され、乳房の切除手術を受ける。手術後、ふみ子は一念発起して詩作に励み、髪も従順な妻としての振る舞いも捨て、家父長制社会を批判する詩を書くようになる。彼女は手術の経験によって、特に新しく発見したセクシュアリティと詩人としての自信において、変貌を遂げるのである。

ふみ子の詩は東横日報に掲載され、注目を集め、若い記者、大月章(葉山良二)の称賛を浴びる。しかし、次第に章はふみ子と恋仲になり、ふみ子の詩を擁護するようになる。ふみ子の病気は急速に進行し、詩人としての活動を開花させながらも、彼女の体は病気との戦いに敗れ始めていた。彼女は静かに息を引き取るのではなく、自分の人生と詩人としての遺産を管理し、死後、子どもたち(そして鑑賞者)に最後の詩を残していく。

『乳房よ永遠なれ』の映像スタイルは、明らかにフェミニストで作家主義的である。小津の厳格な形式的スタイルが感じられるが、特に映画の冒頭、ふみ子が悲惨な伝統的結婚に囚われる場面では、ふみ子が自己主張と独立を強めるにつれて、映画のカメラワークもそうなっている。田中の流れるようなカメラは、詩人の主観的な視点になり、彼女はますます大胆になり、自分の生き方に適合しなくなる。死に直面した彼女は、もはや好感を持たれようとも、従順であろうともしない。彼女の行動はしばしば周囲を驚かせる。特に、新聞記者を性的に征服し、人生で初めてロマンスを見出す場面では、その傾向が顕著である。

乳房切除の場面だけでなく、映画の後半でふみ子が女友達の絹子(杉葉子)に反抗的に傷のある胸を見せる場面でも、女性の身体を率直に描いていて息を呑む。カメラアングルの関係で見えないが、絹子の表情から、彼女がその光景に深く心を揺さぶられていることが分かる。田中が時代を先取りしていたことは明らかだ。

増村保造監督の『大地の子守歌』(1976年)を最後に、180本以上の映画に出演し、1962年の『お吟さま』を最後に、長編映画を6本監督している。戦後まもなく親善大使を務め、ベット・デイヴィスとの面会で「アメリカの田中絹代」と言わしめたのは有名な話である。当時のニュース映画では、デイヴィスが田中から着物の贈り物を受け取っているが、これは戦後の日米間の悪感情を和らげるためのジェスチャーであった。

日本では、田中がハリウッドに媚びを売っていると批判されたが、彼女は死ぬまで仕事を続けた。市川崑監督の『映画女優』(1987年)は、溝口や御所との仕事、そして20世紀の日本映画のヒエラルキーの中で女性監督として疎外された彼女の姿を率直に描いた、遺作となった映画伝記の対象である。

結局、『乳房よ永遠なれ』は、日本映画界の内外で男性に支配された文化の中で作られた、驚くほどフェミニスト的な映画として際立っている。戦後、俳優から監督に転身し、自主映画で物議を醸したアイダ・ルピノのように、田中は強いフェミニストの声を持つ自主映画監督であることを証明したのである。田中が監督を務めた6本の作品は、女性の経験と欲望を反映した物語を、本物の女性の視点から伝えようとする彼女の決意の証といえるだろう。

『Senses of Cinema』より

■LOCATION
【北海道】札幌市(札幌駅、北海道大学・ポプラ並木、同・植物園、月寒・農林省北海道農業試験場、円山公園、北一条カソリック協会、北大病院ガン病棟)/江別市(野村牧場)/洞爺湖/小樽市(小樽駅)/千歳市(支笏湖)

■COMMENTS
ドア前や並木道などでの縦構図

倒れた時のドリー

手鏡

オルゴール

音楽

お風呂を出た後のシーンが好き

病室を出て霊安室に向かうシーン

夜、大月に寄り添うシーン
ROY

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