古川智教

ブロンド少女は過激に美しくの古川智教のレビュー・感想・評価

5.0
映画とは何重のヴェールに包まれていて、何度そのヴェールの間を往復するのだろうか。少なくともルイザが佇む窓辺には二重のヴェール=カーテンが縦と横に引かれていて、ルイザは向かいの建物の一室、あるいはその下の通りにいるマカリオの前に姿を現わすときに二重のヴェール=カーテンの間を通り抜けてくる。いや、艶やかかな美しい団扇もいれれば、三重である。その逆に映画のヴェール=カーテンを遡ったり、裏返したりするとどうなるか。エッサ・デ・ケイロスの原作の映画化であるのに、文学サロンにてエッサ・デ・ケイロスの肖像画やエッサ・デ・ケイロスの小説に登場する人物たちの人形が映し出されることにもなるし、あるいはルイス・ミゲル・シントラが本人役としてフェルナンド・ペソアの詩を朗読することにもなる。しかも、フェルナンド・ペソアの名は出さず、異名のひとつであるアルベルト・カエイロの書いた詩として。もうお分かりだろう。映画は上と下、縦と横、手前と奥(ルイザが姿を現したり、隠したりする窓辺だけでなく、映画のラストの列車が画面の奥へ走りすぎていった後の列車に追い縋ろうとするかのようにアップになって映像の粒子が荒くなるショットも含めて)、左と右(列車の中で見知らぬ他人にマカリオが胸の内を明かすとき、レオノール・シルヴェイラの視線はマカリオとは直接交わらず、あらぬ方=カメラの方に向けられてる)に自在に移動できるのだ。なぜなら、映画とは徴であるからだ。「私は映画のそこが好きだ。説明不在の光を浴びる壮麗な徴たちの飽和」映画の中で鐘の音が何度鳴っても、朗読されたアルベルト・カエイロの羊の番人の一節で、「羊の鈴音は鐘の音とはまるで違っていた」という言葉があれば、映画の中の鐘の音は全く別様に変質してしまう。そうなるとルイザはそもそものはじめからマカリオの心を盗んでいた時点で泥棒だったことになり、裏切りもなく一切おかしなところはなかったということにならないか。まるでそれを描く映画のように。映画に裏切りなどない。アルベルト・カエイロの詩の互いに干渉しない自然のように登場人物とも観客とも独立している。ルイザがマカリオにお前は泥棒だと罵られ、部屋で打ち拉がれて項垂れる姿にも手前と奥があり、大きく股を広げたその先の闇にも映画は自在に移動できる。画面の奥へと消えていく列車がまさにそれだ。
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