『ヒアアフター』
原題 Hereafter.
映倫区分 G.
製作年 2010年。上映時間 129分。
巨匠クリント・イーストウッドが、死後の世界にとらわれてしまった3人の人間の苦悩と解放を描いたヒューマン・ドラマ。
脚本はピーター・モーガン。
出演はマット・デイモン、セシル・ドゥ・フランス。
サンフランシスコに住む元霊能者で肉体労働者のジョージ、臨死体験をしたパリ在住のジャーナリスト・マリー、兄を亡くしたロンドン在住の小学生マーカスの3人が、互いの問いかけに導かれるようにめぐり会い、生きる喜びを見出していく姿を描く。
小生は『空(くう)』の概念に傾倒してる。
現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができない。
諸行無常。
とは云え、また、不可解な経験をしたことがあるが、無神論寄りの考えを持ってる。
不可解な経験の多くが、錯覚だったり(怖さ故の)、また、臨死体験などは、脳内に起きる科学的な反応(痛烈なピンチの時に放出される脳内麻薬)の類いの仕業だと思ってはいる。
因みに今作品の中では
『そのような状況の人(臨死体験下)の脳は停止状態にある故に脳内現象もない』と述べてた。
不可解な経験で云うと、作中のマット・デイモン演じるジョージと同じような感覚があった。
十代から二十代の頃にその経験が多く、人のオーラ(光背)が見えたり、ある時など知り合って間もない人たちと食事をした折り、初めて出会う妙に惹かれる女子が一人いた。
その子の背後、いや、むしろ内面に全く知らない女性が見えた(苦しんでいた)、と云うか感じられた。
その頃は、何でもストレートに云う正確でしたし、率直にその女子に感じた旨を伝えた。
程無くして、彼女は気分が優れないと云い帰りその後は精神を病んでしまったと聞く。
また、近所の後輩など、小生の感じたモノを伝えたせいで、祈祷師までやとって御祓をした者もいる。
今はその後輩は、そんな名残はなく手広く店をきりもりしてるが、今思えば、小生が感じたのが錯覚などではなく(錯覚でも)、良く云う『見えた』のだったら彼、彼女たちに云わなければ良かったと思う。
ただ、臨死体験してからは云わなくなった。
もし云うなら最後まで付き合う覚悟で云うべきと今は守ってる。
むしろそないな感覚は、マット・デイモン演じるジョージと同じように要らないし、笑えない(ジョージって名前が小生と同じなのは笑えるが)。
また、今作品で描かれてる一般に先に記したように臨死体験と云うものも経験してる。
(今作品で話される、臨死体験アルアルを正にそのまま体験してる)
臨死体験てのは、脳内麻薬の作用だと個人的には思ってる。
しかし、臨死体験時、無意識の中で、習ったこともないヘブライ語を小生が話していたと云う。
その答えは未だに出ていないし、あと、不思議なことに肉体の変化、鼻炎、目の結膜炎などの症状は全くなり、喘息がはじまった。
また、読書においての速読が可能になったのは、その時を境にしているので因果関係は全くないとは云いきれない。
ただ、小生のスタンスは、臨死体験はあくまでも脳内現象だと思てます。
今作品の中で、ルソー博士が臨死体験について話すセリフに、
『科学者として、そして無神論者として私には認めがたい話しね。
私の心はそのようなものに閉ざされていたわ。
そう、いわゆる死後の世界、臨死体験。
眩い光を見たとかエデンを見たと云うのはーー
宗教の影響だと思ってた。
しかし、25年間ホスピスに勤め、死を宣告された人々の多くが奇跡的に生還しているの。
後に、彼らが実際に体験したことは、偶然の一致とは思えないほど驚くほど似ているのです。
しかも、その体験をしたときの脳は停止状態だったわ。
そうした光景は、脳内現象ではないと。
信心派も信じてる。』
と語っていたが、死に際に、バイタル維持装置は付けてても、脳波測定器を付けてるのはあまり見たことがない(無知かもしれないが)。
付けてないのに脳内の活動の有無がどうして科学的に証明されるんやろかと、長い寄り道をかきましたが、臨死体験否定からみたら今作品は成り立たないし、後半はあくまでもフィクションだと云う前提で見ました。
話は全く違うのですが、クリント・イーストウッド監督はマルチな才能持っとんなぁと脱帽です。
彼は、アマチュア・ジャズ・ピアニストとしてもフリークの間では知られている。
また、メロディーを作曲することでも知られ、いくつかの映画で使用されているそうで、
今作品に流れるメロディーは、『許されざる者』(1992)のスコアから大きく派生してて、明らかにイーストウッドのアイテムであるのが分かるけどホントにイーストウッド節が炸裂してるサウンドかな。
そんなクリント・イーストウッド監督の『ヒア アフター』は、
イーストウッドと脚本のピーター・モーガンが、死と死後の世界の可能性をめぐる人間の難しい疑問や問題に取り組もうと試みている。
サンフランシスコの工場で働く、死者とつながるある程度の超能力を持つ男(マット・デイモン)、
臨死体験から生還したフランスのテレビジャーナリスト(セシル・ド・フランス)、
双子の兄を不慮の事故で亡くし、麻薬中毒の母親と暮らすロンドンの少年(フランキー・マクラーレン)
ちゅう3人が、異なる国で生きるそれぞれのストーリーを描いています。
また、ブライス・ダラス・ハワードが、デイモン演じる主人公が出会い、短期間デートする女性役で脇役として出演していました。
今作品の見る人の感覚で大きな強みにも、弱みにもなると云える、いかに控えめで静かであるか、そしていかにスローペースなストーリーテリングであるかというのを貫いている。
個人的には強みになりとても面白く視聴しました。
登場人物と彼らのジレンマに没頭し、展開や仕掛けに目を奪われることなく、ストーリーが少しずつ前に進んでいく。
実際、この映画で何が起こるかと聞かれたら、それを説明するのは非常に難しい。
なぜなら、今作品は、典型的な直線的または定型的なプロットに従うことなく、登場人物のジレンマと悲しみに完全に基づいているからです。
今作品は、下手な監督や脚本家なら、このデリケートなテーマを取り上げ、現実から離れすぎて、ヒーヒーと眉唾物の世界に入り込んでしまうのは簡単なことやったとは思う。
しかし、イーストウッドの手にかかれば、この題材は常に人間的なレベルやった。
基本的に、登場人物と人生の課題を探求するアートハウス映画(ニッチ市場向けに作られた自主制作映画)であり、最初の10分間は特殊効果でスリラーであるかのように見せかけているが、これはそのためなんかな。
また、この映画は宗教寄りでも反宗教寄りでもないことも重要なポイントで。
墓の向こう側で何が起こっているのかを知っているようなふりをしない。
デイモンが演じるキャラは、愛する人が自分とつながっていることだけは感じ取れますが、その愛する人がイエスやアッラーと一緒にいるのかどうかについては言及していない。
これは、世界のさまざまな地域における人間の悲しみについての人物映画であり、この問題を取り巻く困難や悲しみに、すべての人々がいかに共感できるかを示していると感じた。
今作品を見ながら考えた興味深いアイデアのひとつは、世界のさまざまな個人やグループが、死という概念にまつわるこうした未知の疑問のために、経済的あるいは政治的に何らかの形で人々から利益を得ようとしていること。
宗教、特にキリスト教とイスラム教について、非常に微妙なニュアンスの言及がいくつかあり、救いの道を歩むために
『自分を売り込もう』
と互いに競争している様子も描かれてました。
また、この話題で金儲けをしようと本を売ろうとする作家の例や、マット・デイモン演じる主人公の兄(ジェイ・モア)が、キャッシュフローが見込めるから霊感占いのビジネスに戻るようジョージ(デイモン)を繰り返し説得する様子も描かれている。
もちろん、映画産業もこの話題にまつわる陰謀や不思議から利益を得ようとすることを忘れてはならないけど。。。
実生活の知能指数160のマット・デイモンが控えめに、とても堅実な演技をしている。
彼の演じるジョージは、自分の能力に誇りを持たず、ただ自分のコミュニティの中で普通という岩の下にもぐりこみたいだけ。
彼は、今作品の他のどのキャラよりも賢く、英雄的であろうとはしていない。
彼は極めて控えめで、どこか恥ずかしがり屋の親近感を覚えるキャラを徹していた。
よく地面を見下ろして、とても穏やかに話す。
同様に、セシル・ド・フランスとフランキー・マクラーレンもまた、その演技に高度な抑制を加えている。
おそらくイーストウッドは、子役の多くがオーバーアクトになりがちな典型的な子役の演技を訓練されることを懸念して、マクラーレン(と双子の弟)を演技経験がないことを踏まえて採用したのだろうと思われる。
また、ベテラン・コメディアンのリチャード・カインドが、冒頭の数シーンで、非常に感動的でドラマチックな演技を披露していました。
個人的には楽しめた作品で、いつものイーストウッド映画とは違う一面を見れた善き作品でした。