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ヒア アフターのharunomaのレビュー・感想・評価

ヒア アフター(2010年製作の映画)
5.0
喪に服すことと
いまを生きることを両方同時に提出すること
ヒア アフター ユリイカ アワーミュージック


『ヒア アフター』は、死者の世界に触れた者たち、寄る辺なく、しかし神に頼る訳でもない者たち、そして互いに見知らぬ者たちが、最後に握手を交わすまでの話であると取りあえずは言える。幼年期に病気に掛かって以来、死者との交信ができるようになったサンフランシスコにいるジョージ。津波による臨死体験から、ヴィジョン(霊界のイメージ)を見てしまったフランス人女性のマリー。そして双子の兄弟のジェイソンと母子家庭で暮らすロンドンのマーカスは、ある日ジェイソンを事故で亡くす。死の世界との接触により、同じ日常の地平に立っているはずの人間が、あるいは向かい合っているはずの人々は、すれ違って行く。

 霊能力を持つジョージが、兄の連れてきた知り合いの男の手を握り死者との交信を行う部屋は、隣室から漏れる灯りや、テーブルランプだけが照らされ、ジョージや相手の顔はほとんど半分以上が闇に覆われて見えない。ジョージはヴィジョンを見、その人と強い記憶を共有した死者の言葉を語る。相手は満足して帰るが、立ち去る相手を、ジョージは階上の部屋の窓から見下ろす。ジョージにとって、相手は、会話を交わし、親交を持つ人物ではない。質問に「はいか、いいえ」で答えろなどと言う関係は、普通ではないのだ。窓から見下ろす相手との高低差が、そのことを強調している。料理教室で仲良くなった女性メラニーにせがまれ、交信を行う場面でも、ジョージの顔は半分ほど暗闇の中にある。しかしキッチンから漏れる順光の灯りがメラニーの顔を照らし、彼らはかろうじて、闇に完全に覆われるのを免れて向かい合っている。死者との交信という扉を開ければ、普通の関係を結べなくなると言うジョージの言葉通り、死んだ父親の言葉をジョージから聞いたメラニーは涙を流し、立ち上がり、ジョージから離れる。「今のことはすべてなかったことにしよう」と言うメラニー。「平気よね 私たち」ジョージは立ち上がって、メラニーを見つめるが、座って向かい合っていたのとは逆に、ジョージのほうがキッチンの灯りに対して順光に位置し顔が見え、メラニーが逆光に位置し、顔は暗くつぶれている。
 『ヒアアフター』においては、このような光源や光量の少ない室内において、向かい合った相手の顔が見えないという状況が多くある。大津波の後、テレビキャスターの仕事に戻ったマリーが、本番中にヴィジョンを見て討論の受け答えに失敗する。化粧室にいるマリーに話をする恋人であり、番組のプロデューサーでもあるディディエ。立ち去ろうとするディディエに水の中で見た光景について話そうとマリーは立ち上がり、ディディエと向かい合うが、ディディエの顔は半分が暗闇に隠れている。同じ地平に立ち、向かい合う人物は、互いによく見える状況にはいないのだ。
 しかし顔の暗闇の問題以上に、互いに座った状態で霊との交信を行う際に問題となるのは、ジョージが座っている場所だ。暗がりの室内であるため、明らかに示されてはいないが、兄の知人の男性の時も、メラニーの時も、椅子に座っている彼らに対して、目の前に座ろうとするために、ジョージはローテーブルに座っているように見える。ジョージは本来座るべきではない場違いなところに座っているのだ。そのため、男性やメラニーよりもジョージの身体は高くなり、相手はジョージの顔を見上げる形となる。二人を捉えたショットは、暗がりの中、ジョージの存在を高みから何かを施す人物として異様なものに見える。視線を合わせることはない。
 このように『ヒアアフター』においては、いわゆる階段の上下や、地上と階上との高低差だけではなく、人物たちが座っていることや立っていることの間にも微妙な落差を付けている。マーカスは、双子の兄弟であるジェイソンが死んだ後、アルコール中毒の母親から離れて里親へ預けられることになる。福祉局のセンターで母親との別れの会話がなされるが、母親は座ったまま、立っているマーカスと向かい合い話をする。小さい子どもを見上げながら話すのは、息子に対しての不甲斐なさからなのか。彼女は最後に息子を抱きしめるときも、中腰になったままでいる。あるいはジェイソンの事故の日、マーカスとジェイソンが前日に撮った二人の写真を母子三人で見る時、両方の腕で息子たちを包みながらも、彼女は椅子に座っている。彼女が座っているのは、子どもたちとの身長さを考えれば、自然なことかも知れない。しかしジェイソンの異変に気づいた後、マーカスが家を飛び出す瞬間に「マーカス!」と母親は叫ぶが、ここでも立ち上がらない。すぐ隣に玄関があるにも関わらず、彼女はドアが閉まった音を聞いてから、マーカスの名前を叫ぶ。アルコール中毒である母親の設定上、身体の具合の悪さから反応が遅れているとも言えるが、画面手前を通り過ぎるマーカスと閉じられるドア、そして母親の叫びを1カットで撮っている画面を見ると、その反応の遅さや少しも立ち上がる素振りを見せないのは不自然に感じられる。

 暗闇で顔がよく見えない相手との切り返し、あるいは人物同士の高低差は、なにを強調しているだろうか? それは、死にまつわる体験を日常的には共有できない、話すことができない、関係の断絶さに他ならない。この物語は、個人的な深部の記憶を語ることが殺がれているのだ。ジョージは「その扉を開けて、足を踏み入れたらもう普通の関係には戻れない」「誰かのことをすべて知るのは、いいことに思えるかもしれない。でも知りすぎない方がいいんだよ」と言う。死者の記憶、死者の声は、その者と親交があった者にとって一番内奥のプライヴェートにあたることである。ジョージが、死者とコネクトし、生きている相手に、その死者の姿や、声を語る時、彼は視線を逸らし、時に目を閉じるような仕草をする。それは話してはいけないことを話しているような語り口だ。彼は日常を生きる普通の人々が目をつぶって通り過ぎることを引き受けてしまう。普通、人は、今を生きるために、多くの問いにふたをするが、彼は彼自身が、別の次元の別の言葉を、今現在の彼の声に翻訳する通路のようにして存在している。トンネル、通路、穴、なんと呼んでもいいが、彼の声は、彼のものではなく、その声により、ある人についてより多くを知ってしまったがゆえに、そしてそのことを(トラウマ的な記憶も含め)相手に知らせるために、相手との通常の関係の多くを失ってしまう。人間の関係性を殺がれてしまう彼の孤独は、想像できないくらい深い。彼は自分の特殊能力を「呪われたギフト」と呼ぶ。死者と共に生きる者。あるいは、もっと大きく言えば、歴史の声を聞く者は、生者との日常の中にはいない。普通のコミュニケーションがここでは成立できないのだ。ジョージのような幼年期から特殊な能力(ギフト)を持つ訳ではないが、津波に襲われヴィジョンを見たマリーや兄弟を失った幼いマーカスは、それぞれの死の体験を経て、そのことを忘れることができず、むしろ積極的に、そのことについて知るために、あるいは、誰かと共有すべく行動する。その中でも彼らは、通常の人間関係に大きな軋轢や断絶を意識する。しかし自らの、本当に個人的な体験を胸に、彼らは塞ぎ込まず、多くの人に出会い、マリーは最終的に、自身の体験を本として形にする。言葉を持つと言うことだ。

 映画の終盤、ロンドンでのブックフェアでジョージとマリーは出会う。「ヒアアフター」という題の本を執筆したマリーは、本の講演を終え、テーブルに座り、本を買う客たちにサインをする。ジョージは本を手に取り、それをマリーに渡す。本を介して初めて彼らは触れ合うが、座っている者と立っている者の落差は、そこにまだある。一方、霊能力者としてのジョージの顔をネット上で見たマーカスは、彼に気づき、ホテルまで後を追って行く。部屋に入り階下を見下ろすジョージ。夜になっても、マーカスはずっと待っている。兄の知人の男性やメラニーの時のような立ち去る人物を窓から見下ろすという高低差は、最終的に解消され、ジョージは彼を部屋へ招き入れる。マーカスが立ち去らないために、彼はマーカスを受け入れる。交信が行われるホテルの部屋は、バスルームから漏れる光だけで、やはり暗闇に覆われている。しかし、椅子に座るマーカスと向かい合うジョージはベッドに座っている。二人の落差はあるが、ジョージが座っている場所がベッドであることは、重要だ。『ヒアアフター』においてベッドは、主人公たちが、一人でいる多くの時間を過ごす場所である。マーカスにとっては、ジェイソンが亡き後、自宅でも里親の家でも、二つのベッドの片方にジェイソンの面影を見て、寝る前に「おやすみ」と声を掛ける親密な記憶の宿る場所としてある。ジョージにとっては、ディッケンズの朗読のCDを聞きながら安らぎを得る場所であるし、マリーにとっては、座りながら手紙や書類を整理する場所である。ベッドの上に二人の人物がいたのは、冒頭の2カット目に当たる、津波に襲われる東南アジアのホテルにいたマリーと恋人のディディエが寝ていたベッドだけだ。マリーはすぐに起き上がり、ディディエの子どものお土産を買いに町へ行く支度をする。ホテルのベッドに留まっていれば津波に飲み込まれずに済んだはずだが、彼女は起き上がってしまう。これ以降『ヒアアフター』におけるベッドは、一人の者たちが、静かに過ごすプライヴェートな場所として存在することになる。
 ホテルのベッドに腰を降ろし、ジェイソンの声をマーカスに伝えるジョージは、「行かないで」と嘆願するマーカスに応えるように、すでに聞こえるはずのないジェイソンの声を、彼になりすませて代弁する。ジョージは初めて嘘を付く。今まで、死者の真実の声だけを伝えていたジョージだが、マーカスを前に、彼は、自分の言葉で、マーカスに語りかける。物語っているのだ。死者の声を届けるときは、話しかける相手の目を見れなかったジョージだが、ここでは、マーカスの目を見て、彼は語りかける。それはまやかしの死者の声であるだろうが、マーカスがこれから生きて行く上では、重要な声となる。ジョージは、初めて、その人のために、自分の言葉で語ったのだ。呪われたギフトを使った言葉ではなく。
 その翌日に、ジョージは手紙を書く。マーカスから知らされたマリーの泊まっているホテルのロビーで、ジョージは、留守中のマリーへの手紙を書く。見ず知らずの、しかし触れ合い、死後の世界という共有不可能なものを一瞬共有した者への手紙。書くこと。離れつつ、遠ざかり、直接的な対面ではなく、時間を経て、書かれたものは、届くのだ。文字を書くことにおいて、人間は、人間の存在論的に塞ぎきれない穴(われわらは何故生まれ、どこへ行くのかという、ほとんど「暗闇の根底の穴」からの問いに、本当はいつでもさらされているのだ)を、別なコミュニケーションにおいて、開いていくように思えるからだ。『ヒアアフター』には、多くの声があるが、書かれた文字(手紙)は、そのもうひとつの声であるだろう。

 マーカスは、喪に服しながらジェイソンの幻影を探し求めることを止め、決してジェイソンを忘れる訳ではないが、前を向いて生きて行くだろう。後日、マーカスは、アルコール中毒から立ち直った母親と再会する。治療センターの室内で、マーカスは母親に近づく。母親も椅子から立ち上がりマーカスに歩み寄り、二人は抱き合う。ここには、座る者と立つ者の落差はない。子どもと母親の身長差があるだけだ。母親は鑑込む形で、マーカスと向かい合うのだ。そして切り返される彼らの顔は、お互いの顔が見えるちょうどよい光に照らされている。『ヒアアフター』において、向き合うこと、再会は、このような、ちょうどよい光のなかで出会うことに掛けられていないか。ラストにジョージとマリーが会う場所も、暗い室内でも、直射日光がさす屋外でもなく、その中間であるアーケードのあるカフェである。人工的な蛍光灯の光や、暗がりで顔が見えない場所でも、逆光の光を放すヴィジョンの中でもなく、街角で出会い、握手を交わすこと。

映画『ヒア アフター』においては、物語にファンタジーの要素があるため、主人公たちの出会い方は特殊なものとなるが、ある体験を契機に、その事柄を忘却することに抗い、口をつぐむことを拒む個人が、フィクションではあるが、ここにはいる。彼らは、ある客観的な真実に頼ることも、さらに大きな神に頼ることもなく、死に触れるというおおよそ個人的な、共有不可能な体験を、あくまでもこの地上のフィールドで、歩き回り、人に会うことを恐れず、行動する。出会 いは解決ではない。理解し合える者同士の出会いが「幸福な終わり」を告げるのではない。「ヒアアフター」には「これから」という意味もあるのだ。ある出会いは始まりでしかない。しかし その可能性。つまりは、「はじまり」の可能性としての出会いをも無意味なもの、不可能なものであると思えば、もはや、生きることができない。だから出会うことを恐れずに、ここから始めてみたい。
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